2004.11.18 中谷礼仁

宇宙人とバラック

SF的リノベーションの考え方

初出:『チルチンびと』No.30 2004年秋号風土社

あなたはいま、いわゆる「古民家再生」を立派に成し遂げた、としてみよう。そこで得られた経験は楽しかったが、大変でもあった。人生半ば過ぎにして達成されたこの一大事業の実現を前にして、あなたは感慨深げに佇んでいる。
しかしふいに、完成した再生民家を眺めているうちに、だんだんと心配になってきたのであった。わたしは何を新しくこの民家に付け加えることができたのだろうか?と。屋根の勾配も木製建具の醸し出す壁面のリズムも、周囲の環境ともすべて調和している。破綻はみじんもないのであるが。
あなたは自分自身に疑念を抱きはじめる。設計や施工に参加していく中で、協力者たちといろいろ考え、全体から細部に至るまで仕様やかたちの結論を出していったはずである。しかしできたものは何の変哲もない「民家」であった。もしやわたしには「創造性」とやらが欠如しているのではないか?「民家」にこだわる自分そのものが、文化的、芸術的落伍者なのではあるまいか、と。

心配には及ばない。状況から検討するかぎり、あなたは人並み以上の、もしかしたら類い希なる「創造性」を発揮していたはずである。まだ疑心暗鬼だろうか。ではこう言おう。あなたは様々な選択がありうる中から、最上の結果として、注意深く、「普通」の民家を選んだのである。これは現時点においては、かなり高度な趣味や判断が必要とされているのだ。まだ信じられないのだとしたら、あなたの中にあった、「普通」に至るまでのプロセスを、極限なまでに誇張して考えてみるのが良かろう。さしずめ、それは宇宙人の視点であり、再生前の民家はバラックである。

宇宙人になろう
さて地球にやって来た宇宙人(一応五感は私たちに似たり寄ったりとしておこう)を惹きつけることができるような、人間による構築物はどのようなものであろうか。彼らは観光気分で美しい星・地球にやって来たのであった。いまの日本では何が尊ばれているとか、何が流行っているとかはさして宇宙人たちには興味ないわけだ。二十世紀を席捲した「モダニズム」も歴史のコマの一つに過ぎない。想像を遥かに上回る、高度な知性体なのだ。わたしたちは、いってみれば彼らの文化「人類」学的対象である。
そんな彼らが散歩したら、彼らは何に興味を持つだろうか。
ニューヨークの摩天楼は、彼らのお気に入りになるだろう。鉄とガラスという限られた素材で起ち上げられたその高密度によって。
極度に限定された空間で多様な生物活動が営まれている様子は、ちょうどアリの巣を見ているように、普遍的に眼を惹きつけるものだ。
白川郷も、きっと気に入るに違いない。周囲と調和しながら、同じような屋根のかたちを作り出した、複数の生き物たちの営為に奥深さを見いだして。
そこにはかけがえのないシステムが内在しているに違いないからである。
バラック建築の細部は、以外に断トツの評価かもしれない。人間という生き物のアドリブ能力の優秀さを物語るサンプルとして。
倒れるかもしれない構築物をとっさの判断で保ち続けることには、すい星群の中で宇宙船を操縦するのと同じぐらいの、カンと科学的精神が必要なのだ。
そして普通の庶民住宅の庭では、彼らも一休みしたくなるだろう。その建物の開き方の妥当性によって。
人間と同じように宇宙人にも知覚器官がある。適度に開いた空間は、生物活動をおびやかさない程度の知覚情報の豊かさ、つまりは快適さを保証するものだ。

その逆に彼らの興味を引かないものは、日本の二十世紀に形作られた、何でもありのかたちが跋扈しているような町並みであろう。それはいわばホワイトノイズの状態であって、特筆すべきかたちの特徴が全体として見当たらないからである。わたしたちがカッコいいと思っている最新の建築素材も彼らにとってみれば、効果の少ない、単なる資材の移動に過ぎないかもしれない。つまり「宇宙遺産」的に見れば、調和しながらもある明確なかたちを持った構築物や構築群こそが、そこに生息する生き物の英知を物語る。宇宙人の目で見れば、ニューヨークの摩天楼と同じレベルで、一つのバラックが文化的徴(しるし)として認められるかもしれないのである。自由であるが調和していること、調和しているが独自であること、これが生物が生きる条件だ、と宇宙人はいう。彼らもすでに先祖の星をホワイトノイズで埋め尽くし、揚げ句の果てに宇宙船でさまようことになった存在である。その言葉は重い。あなたはすでに、そういう目で、「民家」を見ているのではないだろうか。

家が生きるために人がいる
そして宇宙人は不思議に思うだろう。なぜ日本という地域に住む人間たちは、こうも家を建てたがるのだろうか、と。彼らのタイムマシン的視眼によれば、日本の建設活動のサイクルの早さは、まるでコマ送りのぎこちない短編映画だ。そして数知れない宇宙遺産候補がこわされて、そのかわりにホワイトノイズの町並みがその土地を覆っていく様がありありと映し出される。宇宙人は、素朴にもったいないと思うだろう。その資材を過去からの構築物の再生にうまく使えば、もっとすばらしい環境が生み出せたろうに、と。宇宙人たちはこの現状を鋭く分析して、二十世紀の日本ではすまいが単なる経済上の商品、所有物になってしまったことを見いだしたのだ。日本人たちは家好きらしい。しかしその「オラがイエ」指向がむしろ「家」を殺しているのだ。
少し勉強を始めた宇宙人たちは、こう指摘する。家がなくては、人は生きることができない。家が生きてこそ人が生きるのだ。人のために家があるのではなく、家のために人がいるのではないか、と。インドネシアという土地では、まさにそのようにして生き続けている家があった。その家の屋根はとてつもなく大きいのだが、それは彼らの先祖や記憶を埋蔵するハカやクラだからなのだ。その上空を覆う屋根を支える柱の下、その吹き放ちの空間で人間はかろうじて生きていた。こういう過去の遺物と現在の生活との関係も一つの本質なのに、と宇宙人たちは上空をさまよいながらつぶやくだろう。
こんな関係は現代の生活では見当たらないという反論もあるかもしれない。しかし、実はそうとも限らない。たとえば今に言うすまいのオープンスペースとは、先の軒下の吹き放ち空間と同類なのである。そしてオープンスペースをかっこよく使いこなすためには、実はごちゃごちゃとした身の回りの品を隠す押し入れ─クラが必要だ。もしオープンスペースだけの家があったらどうなるか、それはオープンスペースではなく、むしろその家全体が一つの押し入れ─クラになってしまうのである。友人の建築家のオープン・ハウスに招かれてみなさい。オープンスペースが押し入れ化している例を何回も見ることになるだろう。住まいにおけるハカ・クラの因子は相当に根強いのである。
家は自分のためだけにあるわけではない。自分以外のものを蓄えるためにも家が先んじて存在している。このつぶやきを、あなたも発したことはなかったろうか。

昔の人のようにはいかない
宇宙人たちはさらに問う。過去の人間たちも、現在の人間たちもそれ自体の行動としては似たり寄ったりだ。それほどの専門性も必要なくどちらも好き勝手に家を造ってきている。ではなぜ過去の人間たちが作り上げてきた家のかたちが、何かしら普遍的なすばらしさを持っているのに比べて、現在の人間たちが作り上げる日常の家は、どうでもいいような代物になってしまうのだろう。
宇宙人たちは、その差が、一人の人間が一時に扱うことのできる選択の幅や素材の量に起因していることをつきとめた。人間が一回の建設行為で扱いうるそれらが、現在の方が圧倒的に増加しているのだ。つまり資材や家のあり方についての選択が限られていた過去においては、いくら人間が頑張ろうとも家の全体はたじろがないのだ。人間が少々間違ったかたちを与えてしまっても、不適合なモノは風雨に晒されてなくなっていく。その結果しだいに調和したかたちができ上がってきたらしいのである。
それに比べて、現在の人間たちが家造りに扱いうる量は圧倒的である。電話一本で業者が飛んできて、最短何日かで家ができてしまうこともありうる。解体業者に連絡すればたちどころにブルドーザーで家は消滅する。つまり人間の家へのつきあい方が、彼らの知らぬ間に拡張しているのだ。これでは、徐々に良くなっていくかたちなどできようはずがない。過去の人間が無意識のうちにおこなってきた普遍的なかたちは、残念なことに現在では、よほど意識的に、行為を選択しないかぎり達成できないのだ。修理のできる大工を探すことがいまでは至難の業になってしまったという。また「普通」をつくれることがすぐれた建築家の証にすらなっているのかもしれない。民家を再生することが予想以上に大変だったこと、いやむしろその「普通」さは、異常な努力のもとに作られたものであったこと、あなたはそれをはっきりと経験したのではなかったろうか。

SF的に考えよ
「わたしが思うに人間のいう「科学」は未熟以外何ものでもないね。科学的とされるモノばかりが優先している。」と宇宙人の古老は述べた。
「科学的判断によしあしがあるのでしょうか」と若い宇宙人は質問した。「そうではない、科学的判断はあるが、科学に決まった実体はないのだ」と古老は切り返した。「昔地球にもコペルニクスという宇宙人がいた。彼は地動説を唱えたが、誰も信用してくれなかった。その当時の人間たちは、地球が動かず、おてんとうさまや星たちのほうだけが回っていると思い込んでいたんだな。狭い情報の中で判断すれば、そう思わざるを得ない。もしそういう思い込みの中で科学が究められ、固定されたらどうなる?後々人災になりはしないかな?」
日本の民家に興味を持ちはじめていたその若い宇宙人は、先日、訪れたある民家のことを思い出した。その民家は土台まわりが湧水によって朽ちかけていた。きちっと原因を科学的に追及して、リノベーションする必要があった。
しかしその民家の土台の腐朽は、実はある「科学」的なリノベーションの経緯が大きく関係しているらしいのだ。それは終戦直後のGHQによって提唱された農村改良運動にともなうリノベーションであった。
その後の鳩山内閣は農村の「へっつい追放運動」を打ち出した。木切れや落ち葉を燃やしてカマドで煮炊きする農村の生活を改善するために、より近代的な台所や水まわりを採用するように働きかけたのだ。土間はモルタルで塗り固められ、民家と離れのあいだは新建材でふさがれた。洗濯機ブームは農村から起こったとも言われている。その結果、この民家では湧水は行き場がなくなり潜在的に蓄積し、通風も悪くなり、家全体が何とも湿っぽくなってしまったのだった。自然の道理であり、「科学」の行き過ぎは、この本来的な科学を見えなくさせる。結局はこの「科学」的部分は近いうちに取り除かれることになるだろう。

「むしろ、コペルニクスのようにSF的に考えよ」と、古老は最後に言った。
再生前、あなたの前に立ちはだかっていた民家は、バラックのようであった。それを活かすためには、いわゆる「科学」的な方法は通用しそうもなかった。現在流通している意味からいけば、経済的にも、機能的にも、合理的にも、再生する行為自体が、明らかに非合理的であった。ではなぜあなたはその非合理にもかかわらず、再生を決意したのだろうか。それはあなたがすでに宇宙人だったからではないだろうか。そのバラックの中に眠っていた巨大な柱梁に、これまでとは何か違った再生の可能性が潜んでいることを、あなたは感じたのではないだろうか。そのときあなたのなかに、サイエンス・フィクションのような新しい合理精神が宿ったはずなのだ。そんなこんなであなたはごく「普通」の民家を再生することになったわけである。

彼らは地球をあとにしてしまった。しかしあなたが実現した「普通」の民家が、実は「普遍」的民家であったことが、これではっきりしたことだと思う。SFとバラック、この間に宇宙人の一員としての私たちの家が存在しているのだ。


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