2003.10.15 中谷礼仁+前川歩

紙上に構築された楼台

注記:本稿は、「漢字と建築」(『10+1』別冊2003年3月1日号、監修 磯崎新+岡崎乾二郎、INAX出版)に掲載された同名の原稿を、本サイトのために全面的に改稿していただいたものです。


1758年・宝暦8年に日本で最初といわれる建築辞書『紙上蜃気(しじょうしんき)』[*1]が書かれた(公刊されるのは後の1780年・寛政2年である)。興味深いのは、この『紙上蜃気』という題名や扉絵(図1:『紙上蜃気』扉絵)であり、序文ではこの題に込められた意図が次のように述べられている。

海上の蜃気楼にちなみ、紙の上に建築の要素をあげ、建築を構築する[*2]

本書は最初期の建築辞書であるがそれのみならず、まさに辞書の本質をとらえているのではないか。なぜなら辞書とは紙という平面上で、何らかの規則にもとづき、用語を並べ、ある現実界のインデックスを構築しようとするものであるはずだからである。では本対象は一体いかなる記述手法でこの意図を実践しているのだろうか。もしくはこの意図は観念的なものだけで済まされているのだろうか。
さて、執筆者は東都工匠長官という肩書きを持つ溝口若狭林卿(みぞぐちわかさりんきょう[*3]である。小普請方(こぶしんがた)という大工組織における高位に属する人物であった。小普請方とは、幕府に雇用された公的な建設集団の一つであった。当時すでに大工社会においては、現場で汗を書いて指図するというよりも、役所に出勤しデスクワークを主体とするような、官僚的な大工が存在していたのであった。溝口の日常もそのようなものであったと推察される。 本論は『紙上蜃気』の独特な記述法-建築把握の手法-を紹介・分析し、その背景をも明らかにすることが目的である。そこでまず、近世建築における建築書一般に関する簡便な見取り図を与え、その中での『紙上蜃気』の位置づけを行い、続いてその内容に踏み込むことにする。

■書という器
書物は、建築(論)になくてはならない乗物である。これがなければウィトルウィウスすら、スイスの修道院で1000年以上を経て発見されることはなかったのだから。
日本における現存建築書は、『愚子見記(ぐしけんき)』(天和2年頃・1682)に転写され伝えられた『三代巻』(長享3・1489)、あるいは近世の木割書の本格的発生として名高い『匠明(しょうめい)』(慶長13・1608)を嚆矢とする。ちょうどウィトルウイウス発見から70年後ほどであった。
周知のごとく、日本における建築書は、名匠家の優れた技術伝承の方策として秘伝的に各家系ごとに伝えられたのが発生の初源であった。これが近世中期・17世紀中盤を最初のピークとして、木版本による出版を通して公開され、公刊を前提とした建築書出版が興隆し幕末期にいたったわけである。つまり日本近世における建築書発生の初期ジャンルは、いわゆる専従者のための技術書にあたるものであり、かつ図や文章を用いた抽象的生産過程の誕生であったと考えるべきである。このような抽象化−情報の共有化は、後になればなるほど、近世の建築生産全般に通底する特質であった。
では一方で、その直接的な目的を建築の再生産に置かず、建築存在をより広い文化的文脈に位置づけるような解釈論−建築論的な書物はいつごろ生まれたのであろうか。それは建築技術書的な公刊物の開始から、約1世紀遅れた18世紀末から始まる。
たとえば尊王復古を主張したために蟄居中であった公卿・裏松光世(うらまつみつよ 固禅)による大内裏(だいだいり)の復原考証を含む『大内裏図考証(だいだいりずこうしょう)』(宝暦八−天明八ごろ・1758−1788)や、国学者・本居大平に師事した沢田名垂(さわたなたる)による家屋一般に関する広範な辞典『家屋雑考(かおくざっこう)』(天保13・1842)である。これらは、例えば古代における大内裏の文献的復元や書院造り(武家)−寝殿造り(公家)といった政治的体制によって住宅を2分するなど、いずれも建築を取り巻く史的、文化的叙述としての内容をはらんでいる。またこれらの著述主体が、いずれも国学者によってなされることも重要である。つまりこれらは、大工棟梁といった建築専従者によって上梓されてきた当時の建築技術書とはまったく異なる著述者の系譜によってなされたのである。

■建築空間・言語の公定
近世における建築書を考えることの基本の一つは、以上のような建築技術書公刊と建築(史)論書発生の間の約1世紀のずれをどのように考えるべきか、ということである。
このずれは建築専従者の世界から、有職故実家(ゆうそくこじつか[*4}というディレッタントへの建築文化の共有化、流通化に要した年月と考えるべきではないか。例えば彼らが建築を論じる場合、彼らの用いる建築用語が共有化されている必要がある。彼らは机の上から一般社会に向けて何事かを発言せねばならない。建築を作る現場であれば、その地域ごとに固有の現場用語が存在していることと、事態はまったくちがうのである。
かつおよそ言葉は、その成立の端緒から何らかの体系化を目指されているわけではなく、むしろ事件的に発生する。それら出来事的、個別な意味合いを有した建築用語を、ある公的な建築空間に再編成するのは至難の業である。この作業は具体的には建築辞書(用語集)の編纂として具体化するのではないか。つまり建築技術書と建築(史)論書との間に、次第に官僚化し知識人化しつつあった当時の高級建築技術者たちの用語編纂作業があり、それらの接ぎ木的な役目を果たしたのではないだろうか。そして、ここに『紙上蜃気』の位置を確認できるのではないだろうか。つまり、それは建築空間の公定としての建築用語編纂の作業であった。(図2:近世建築技術書、建築(史)論書、建築辞書の構造図)

■特異な記述形式−紙上に生じた歪み−
つまり建築書が個別的技術の羅列から体系的な論へと展開する際に、辞書という特異な編纂形式が不可欠であった。これは見落とされがちだがたいへん重要なことであった。その嚆矢が冒頭に紹介した溝口の『紙上蜃気』であり、その登場はくしくも18世紀中盤であったわけである。
さて、次に『紙上蜃気』の内容に入るわけだが、その前に簡単にその概要とこれから本論で使用する重要な用語についての説明を行う。
『紙上蜃気』は約1650項目、約2300語を収録しており、その構成は「神宮之部」、「居家之部」などといった35部に及ぶ意義分類部と42部のイロハの部からなる。記述の方法は図3(図3:『紙上蜃気』本文)に示すように、各用語を分節するため用語間に「○」が書かれている。またそれとは別に「又作ル」、「又云」といった註文が用語間に挿入されている場合もある(図4:本文詳細名称図)
また重要な用語として「異体字」、「同義異字」の説明を行いたい。「異体字」とは、ある正字(標準字体)に対して、音(読み)、義(意味)が同じで、形(字体)の違う字のことを指し、「同義異字」は正字に対して、義(意味)が同じで、音(読み)、形(字体)の違う字のことを指す用語である、と本論文では定義する(図5:「異体字」と「同義異字」関係図)
簡単に概要をみたが、本論で特に注目したい『紙上蜃気』の独自性は、その記述形式にある。本文を見ればすぐに気付くことだが、その独特な記述形式は次の2点に集約することができる。

・用語に意味が与えられていない
・用語の配列に規則が与えられていない

つまり、辞書にとって重要な機能であるべき2つが欠如しているのである。そのありさまはほとんど用語の羅列であり、辞書と呼ぶことをはばかってしまうほどである。
建築に限らず近世において、知識の増大に伴い、その体系化(公定)のため辞書的な総覧が多く要請されるようになった。そこでは、増大した知識をいかに効率よく並べるかは重要な問題であり、そのためイロハ順の採用はもとより、それ以外の検索方法もいくつか発明された。例えば、和算家・暦算家として著名な中根元圭(なかね・げんけい)が著した『異体字弁』(元禄六年・1693)は漢字の正体と異体を弁別するための漢字辞(字)書であるが、その検索方法は次に示すように非常に画期的である(図6:『異体字弁』本文)。それはまず各漢字を、異体字に出会った場合その正体を知るための門である「帰正門」、逆に正体から異体字を知るための門である「好異門」の2つの門に分け、その中での漢字の配列を総画数によって分類する。そして次にそれらを起筆(起横・起直・起斜)によって分類するといったものである。この分類法は現代で、漢字の索引などの検索に用い、字形の四角における筆画の形状に従って漢字を4桁の数字で表す、四角号碼(しかくごうま)による分類法に類似する。こうした客観的・合理的な分類方法が発明されたのはやはり中根が和算家・暦算家であったことが、大きな要因の一つであろう。
さて、境遇が同じであるというだけで、安易に話を一般化するのは危険であるが、和算家・測量家でもあった溝口もそうした厳密性を持って語の分類・配列を行ったと考えてもおかしくないだろう。では、この羅列にしか見えない部内の用語の配列をどう捉えればよいのだろうか。
ここでもう一度、冒頭で触れた、『紙上蜃気』という題に込められた溝口の意図を思い出してみたい。溝口はそこで、紙上に建築を構築することを意図した。つまり、あの象徴的な扉絵のごとく、現実とは別の平面上で建築を透明な記号体系として構築すること[*5]をめざしていた。さてこうした溝口の意図は実際に本書に実践されているのであろうか。冷静に考えるならば、こういったことは観念的なものとして片付けるのが自然であろう。しかしながら、我々は本書の特異な記述形式を確認したばかりである。これら特異な記述形式は、「紙上に建築を構築する」ことを実践したために生じた「歪み」として捉えることはできないだろうか。このことを裏付けるように、序文の中で微妙な表現が含まれている。それは「まさしくその名のみ出す。匠家の童蒙(道理に暗いもの)である者は、名によってこれを推して、これを学べ。」[*6]と、用語に意味を与えないことに関して触れた箇所である。「推して」と溝口が述べるとき、用語の名を示すことに主眼が置かれているのではなく、その名より読者が推量・想像することに主眼が置かれているかのように読むことができる。
つまり溝口がめざした紙上の建築-言葉の意味-とは、まさに読み、言葉と言葉をつなぐ瞬間、そこに発生するのではないだろうか。もう少し具体的に考えてみると、ある用語が何らかの想像を引き起こしたとしても、それが必ずしも建築を構築する方向に働くとは限らない。それをより確実に構築のベクトルに向ける−抽象的な建築概念を獲得させる−には、それぞれの用語間に何らかの連関をもたらすことが必要ではないか。つまり、一見羅列のように感じてしまう各用語は、それぞれが用語連関をもつ仕方で並べられているのではないだろうか。

■「又作ル」という変換装置
次に、註文の種類の一つである「又作ル」がどういった機能を担っているのかをみてみたい。
「作る」には「ある文字の異体を表す」との意味があり、実際に他辞書において、見出し語に対する異体字などを表すために使用されている。そして本書における使用方法も「野隅木(ノスミキ)又タ桷ニ作ル膽(ノキ)」[*7]、「縁側(エンガワ)又椽頬ニ作ル繪様形(エヨウガタ)」などのように、「隅木」に対する異体字「桷」、「縁側」に対する異体字「椽頬」を表現している。つまり他辞書と同様に、見出し語に対応する異体字を表していることが分かる(図7:本文構成名称図(又作ル))
しかし、同じような働き[*8]を持つ「又云」と比べてみるとひとつの疑問が生じる。「又云」は見出し語に対する同義異字を主に表すのだが、図7(図7:本文構成名称図(又作ル))と図8(図8:本文構成名称図(又云))を見る通り、「又云」が見出し語の同義異字を註文で表さず、続語として表現していることが確認される。それは「又作ル」が異体字を註文に含み、さらに続語として違う用語を連ねているという点と比較し、微細であるが決定的な違いがあると思われる。つまり、「又作ル」が「又云」と同じように「野隅木又タ作ル野桷」などと記述するのではなく「野隅木又タ桷ニ作ル膽」と記述する以上、見出し語と続語との間に何らかの関係が込められていると考えうるのである[*9]。なぜ溝口はこのような記述の区別を行ったのだろう。その意図とは、紙上に建築を構築する−2つの用語間に何らかの連関をより明確にもたせている−ことにあるのではないだろうか。
こうした、仮説は次のことを考えあわせると容易に了解できるかもしれない。それは、異体字の性格についてである。漢字において、正字と異体字の関係はまさに形-構築の問題(異体を表現するために「書く」ではなく「作る」とするところに端的に表れている)を担っている。それは図9(図9:異体字の連想)に示すようにであり、この関係はまさしく建築において、「頭貫(カシラヌキ)」、「梁」、「丸桁(ガギョウ)」と形(水平材として)の連想が可能であるのと同様である。そこには漢字という存在も含め、ある構築物の「かたち」がしめす、連想性、蓋然性、必然性が見えない規則となって、次のあるべきバリエーションを見いだすという重要な特性がある(四角が最初に想定されていれば、残りの1辺は他の3辺によって容易に想像することができる。三角と四角が組み合わされれば、それはそのように理解されさらに、組み合わされる)。また近世期になり初めて、先の『異体字弁』などのような漢字そのものに対する直視、つまり漢字のもつ構造や性格、形・音・義に対する考察・研究が始められた。つまり、近世においてはじめて日本人は漢字を客観的に対象化することができたと言えるのである。
以上より図5は図10(図10:「又作ル」と「又云」関係図)のように書き直すことができるだろう。

■「又作ル」分析
以上、溝口は『紙上蜃気』において「紙上に建築を構築する」ことを意図し、そしてそれを「各用語間に何らかの連関を発生させる」ことで実践しようとした、と導いてきた。また、その連関がより明確に与えられている場として、「又作ル」という註文が挿入された項目が存在することを確認した。では次に必要なことは、こうした連関がどのように形成されるのか、そして本当に建築はつくられるのか、を確認することであろう。
「又作ル」は伊之部から須之部まで全848項目中,54項目存在している。この中から典型的な事例を3例取り上げ、「又作ル」の前後の用語にどのような連関があるのか分析を行う。

■事例1「梁俗ニ梁ニ作ル柱欄額俗貫ニ作ル梁夾又介作鉢巻」
これを整理すると、「梁」→「柱欄額」→「梁夾」→「鉢巻」となる。

・「梁」:略
・「柱欄額」:「かしらぬき(頭貫) 柱の上方の繋ぎとなる横木・・・」
・「梁夾」:「はりばさみ(梁挟) 小屋梁より隣の 小屋梁へ掛渡しある木にしてその繋ぎとなるも の・・・」
・「鉢巻」:「はちまき(鉢巻) 土蔵もしくは箱棟 などの軒下にありて,平壁より突出せる細長き平面をいう・・・」(以上『日本建築辞彙』[*10]以下、建 彙)

さてこれら4つの用語はそれぞれ屋根の小屋組みないしその周辺に使われるものであり,これらの用語連関からある種の図(図11:用語連関発生図1)が浮かびあがる。

■事例2「裁褄宇褄之字妻ニ作ル者ノハ非伐接又切接ニ作ル霧除」
つまり、「裁褄宇」→「伐接」→「霧除」となる。

・「兩下屋」:「きりづまやね(切妻屋根):屋根形式 の一。大棟から両側に流れをもつもの」(建彙)
・「伐接」:「きりつぎ(切接ぎ):切って物と物とを つぎ合せること。」(『広辞苑』[*11]
・「霧除」:「きりよけ(霧除け):→きりよけびさし 霧除け庇(きりよけびさし):窓や出入り口など
 開口部の上部に雨仕舞いのために取り付けた簡単 な庇」(『建築大辞典』[*12]

これら3つの用語連関を考えると、「切妻屋根」は概念的には一枚の板を2つに切りそれに角度をもたしつないだものであるという点、「霧除け庇」は元来ないもの、つまり後から付加的に取り付けられるという点で、それらの行為は「切接ぎ」によって説明がつけることができるだろう。(図12:用語連関発生図2)

■事例3「發草俗ニ八雙ニ作ルハネ出」
つまり、「發草」→「ハネ出」と表現できる。

・「發草」:「はっそうかなもの(八双金物) 門扉又は板唐戸などに横に取付けある物・・」(建彙) つまり、門戸の留め具をさす。
・「ハネ出」:「はねだし(刎出) 足場板などの端の 支えなき部分・・・」(建彙)

この2つの用語のつながりは近世の門戸を見れば明らかであり,八双によって支えられた門戸の先端は支えのない状態である。つまりその状態は「はねだし」の状態と考えてよいだろう。(図13:用語連関発生図3)
以上より「又作ル」に連なる用語がある連関をもち、その連関からある種の図(=イメージ)が描けることが明らかになった。また、それぞれの図=イメージは性質の相違はあるものの、決して単的な言葉によって表現しえない複雑に入り組んだ、匠家に必要な知識が表現されていることがわかった。こうした事例分析より「又作ル」が与える用語連間の性質は
1) ある部位周辺の構成(事例1)
2) 構法的共通性(事例2)
3) 性質,形態の類似(事例3)[*13]
に大きく分けることができることが分かった。
また、この図=イメージが,一般的な辞書においての「意味」にあたるものと考えてよいだろう。

■用語説明の困難さ
次に、「用語の連関によりある種の図を発生させる」という手法を、溝口がどのような必要性から用いたのかを考えてみたい。。その手だてとして、太田博太郎の次の言葉を取り上げる。
「術語というのは、互いに連関があるから、個々に、ばらばらに説明したのでは、かえって理解しにくい。」[*14]太田はここで、建築の術語を説明する難しさを端的に述べている。つまり、ある用語(部材)がどういった意味(性質)をもつのかは、それのみでは決定できず、常に他の用語(部材)との連関からのみ決定可能なのである。例えば、「頭貫(カシラヌキ)」、「梁」、「丸桁(ガギョウ)」など、それらは単純化すれば「水平材」であり、それらのみに注目するならばそこに違いを認識することは困難である。しかし、「柱」、「蛙股(カエルマタ)、扠首(サス)」、「垂木」など他の部材との関係、そしてもちろんそれらの部材間の関係をみることにより、性質の違いを認識することができるのである。それは例えば、「頭貫」は柱を固める部材、「梁」は上部の荷重を支える部材、「丸桁」は垂木を受ける部材、などのようにである。
この太田の言葉は、自身が監修した『図解 古建築入門』という初学者を対象とした解説書の冒頭で述べられているものである。そして太田は本書において、建築が作られる順序に従って、それぞれの部材を図示することで、述語の説明を行い、この問題を解決している(図14:『図解 古建築入門』)。このことより、溝口の特異な手法の要請要因も次のように考え得るのではないのか。つまり、溝口は用語の意味はそれ単体としてその意味を決定できるものではなく、あくまで他の語とのネットワーク(連関)の中で決定するものであると考えていた、と。
しかし次のような疑問も生じる。それならばなぜ、溝口は図を用いず、あくまで用語の連関にこだわったのか。これに対しては次のような指摘ができるかもしれない。図は、具体的で分かりやすいのと同時に、それ故それぞれの部材に対して一面的な決定を行ってしまう。しかし同じ部材であっても建物によって、形や技法が異なることは明白であり、そのような一面的な決定は用語の理解の妨げになることがあり得るだろう。そして、溝口がそうした用語の可変性を許容するために、あえて図を与えることをせず、その図の発生を読者に委ねていると考えることができるのではないだろうか。

■さいごに
以上、『紙上蜃気』における画期的な記述手法を報告してきた。
『紙上蜃気』の特異点-紙上に建築を構築することが、用語に連関をもたすことにより実行されていることが、その性質が集約されている「又作ル」の事例を分析することより明らかになった。またその意図は、建築用語の捉えにくさ、つまりある部材を捉えるためには絶えず他の部材との連関を考慮する必要があったためであることが確認された。
溝口の発明した公定の手法は現在においてこそ、その有効性を考えるべきでないか。

*1 本書以前にも『倭名類聚抄(わめいるいめいしょう)』や『節用集(せつようしゅう)』などの辞書に、部として建築に関する用語は取り上げられてきたが,建築辞書として独立したものは本書が初めてと考えられる。
*2 原文「且つ聞く於蜃気海上に謂ふ爲すと樓臺の之形を、因て不す辭せ寡-聞を不す厭は尊卑雅俗は、雖も宮殿樓閣及ひ民屋橋牆と盡とく執て以て凡の二千三百餘銘著はし之を紙上に言ふ紙上蜃気と」
*3 溝口若狭林卿は江戸幕府小普請方大工棟梁・溝口家に属していた人物であり、生没年は明らかになっていないが、溝口の著作の年代から少なくとも延亨から寛政にかけて活動していたと考えられる。溝口は現在明らかになっているだけで5冊の著作を残している。年代順にそれらをあげると、『匠家雛形(しょうけひながた)』 延亨4年(1747)、『木匠言語(もくしょうげんご)』 宝暦7年(1757)、『紙上蜃気』 宝暦8年(1758)、『方円順度(ほうえんじゅんど)』 天明8年(1788)、『尺算新書(りゃくさんしんしょ)』 寛政元年(1789)の5冊である。注目すべきはこれらの書物がその内容から、大きく2つに分けることができるということである。1つは建築に重点が置かれた書物で、前期3作品がそうである。もう1つは和算・測量に重点が置かれた書物で、後期2作品がこれにあたる。つまり、溝口の活動領域はある2面性をもったものとして捉えることができるのである。
*4 ゆうそく‐こじつ【有職故実】:朝廷や武家の礼式・典故・官職・法令などに関する古来のきまり
*5 この言説は田中文男による
*6 原文「蓋し其の名のみ出す。匠家の者の童蒙、名に因て而之を推て之を学べ」
*7 小さなフォントサイズで表現され、下線が引かれた箇所は、『紙上蜃気』のなかの本文中で物理的に小さな文字で書かれていた箇所、つまり註文部分を表現するものである。以下同様。
*8 つまり「又云」では、その言葉通り、読みの違いが表現され、「又作ル」では「書き」の違いが表現されているのである。このように溝口がこの2つの語を使い分けていることが分かる。図8:用語に対する異表現性質表 を参照
*9 またこれに反して,次のように考えることができるかもしれない。「又作ル」自体に「○」と同じ働きがある,と。つまり前後の用語に関連性はないと。しかしこれに関しては反証事例がある。それは一つの用語で完結する「又作ル」であり,例を挙げると「葢又作盖ニ」である。ここでは次に用語が書かれておらず,「○」が書かれている。このことから,「又作ル」には「○」と同じような用語間を切る働きはないと考えられる。
*10 中村達太郎『日本建築辞彙』 丸善書店 1918年
*11 『広辞苑』第五版 岩波書店 1998年
*12 『建築大辞典』 彰国社 1973年
*13 今回省略した54事例の内訳は以下の通りである。分類1)13個、分類2)5個、分類3)10個、そのほかに、分類4)「又作ル」で終わる5個、分類5)連関不明11個、分類6)用語の意味自体が不明8個。5),6)の事例を考慮すると、この3つの分類は今後さらに展開可能であると考えられる。
*14 太田博太郎監修 西和夫『図解 古建築入門』p3 彰国社 1990年

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