2004.12.01 王寺賢太

ラカンから日本語へ

初出:週刊読書人連載「モナドの窓」2001年6月8日

ジャック・ラカンの生誕百周年・没後二十周年にあたる今年、『他なるエクリ』と題されたラカンの論文集(ミレール編集)が出版された。

『エクリ』前後の論文や「フロイトの大義派」の声明を収めたこの論文集は、一面でラカン派精神分析の生成と発展をたどる資料集の性格を持つ。たとえば、1947年の論文、『イギリス精神医学と戦争』は、大戦中のフランスの集団的「不安」と「想像的逃避」に対置して、総動員態勢下のイギリス軍内での「民主主義的」な改革と・それがもたらした隊内での規律の向上を論じたもので、その後精神分析再考へと進むラカンの端緒に戦後民主主義的な「秩序」への志向があったことを窺わせる点できわめて興味深い。ラカン派精神分析のヴォキャブラリーは日本でも既に定着した観があるが、『他なるエクリ』は今後、彼の理論が持つ歴史的な限定についても一層の検討を促すだろう。

だが、この論文集の本領は、『エクリ』以後のラカンの思考をいわば「終わりなき精神分析」の開けとして示すところにある。それを「開け」と呼ぶのは、『エクリ』以後のラカンの理論的な思考が、言語の象徴秩序の中に自らを位置づけた主体がその象徴体系自体を改変する条件を巡ってなされたものであり、理論的体系の体系性自体を問題にするかたちで展開されているからだ。既に『エクリ』において、ラカンはフロイトの『機知とその無意識との関係』を受けながら、象徴秩序の「再創造=娯楽(レクレアシオン)」について語っているが、『他なるエクリ』の機知(ダジャレ)に満ち、晦渋なスタイルを持ったラカンのフランス語は、象徴秩序の「再創造=娯楽(レクレアシオン)」のための実践の軌跡であり、そこでラカンは精神分析=言語の限界に身を置いて書き続けていると見なせるのである。

ここではとりあえず、そのラカンの実践=思考が、「言い得ないもの」を象徴秩序の中に現出させるものでなく、むしろ象徴秩序そのものを成立させる媒介としての文字に物質的な「もの」の現実性を認め、その秩序=順序の壊乱や(ジョイス)、その無用の「もの」としての顕在化(ベケット)に「再創造=娯楽(レクレアシオン)」-後期ラカンはむしろ「享楽(ジュイッサンス)」と言う-の契機を見いだしていることを確認しておけばよい。それは二十世紀後半のアヴァンギャルド文学の共通認識と言っていいが、われわれの関心を引くのは、巻頭の『Lituraterre』(Litterature「文学」のもじり)や『エクリ』日本語版序言でラカンが繰り返す日本語についての認識にある。その論点をパラフレーズするならば、1) 漢字仮名混用の日本語では、意味に回収されない文字の次元の自律性が常に既に明らかであり、Lituraterre的な文字遊び(レクレアシオン)が極めて容易であること、したがって『エクリ』の翻訳を含めた新たな文字列=秩序の導入はまさに意味への到達を回避して文字面での横滑りを要求する日本語の制度に従ったものであること、そして2) 日本語の言表はつねに「礼儀」によって聞き手に依存する形で形式化されていること、に要約されるだろう。以上の論点を踏まえて、ラカンは日本人には彼の言う「精神分析」は理解=聴取(entendre)不能であるとまで言ってみせるのである。

日本語という「他なるエクリ」を前にしたラカンの言葉は、決して荒唐無稽なものではない。そもそもラカンにおいて精神分析とは、コジェーヴの言う、認識によって客体への支配を拡大する主人としての主体に対して、その主体の認識は常に既に言語によって媒介されたものであること、そして主体の認識=言表は、他者の支配=表象である以前に他者との関係の設立であることを示して、超越性を僭称する主人を他者関係の中に置き直す技法であったと考えられる。その際、決定的に重要な理論的な認識は、意識を構成する言語の外在性・物質性と言語行為のパフォーマティヴな関係性の二つにあるだろう。そして漢字仮名混交文と「礼儀作法」によって規定された日本語がその二つの認識をすでに制度化してしまっていると考えるかぎりにおいて、ラカンの「精神分析」は日本語を話す主体には無用のものとも言えるのである。

ラカンの日本語についての指摘は、単にラカン派精神分析の日本での適応・不適応の問題を超えて、日本語で物を書く人間に真剣な考察を--「日本精神分析」を?--要求している。象徴秩序を再創造しようとする言語実験が、「言の葉の幸はふ國」のスノビズムへの備給に過ぎないとしたらどうか?また、そのスノビズムを排するための自我の超越や超越的な意味の要求が、夜郎自大なパラノイアに過ぎないとすれば?諸関係の変更は日本語でいかに思考=実践されうるのか?--これらの問いは、むろん、ラカンの「翻訳」とは無縁に、むしろそれを「理解」するためにこそ問われていかなくてはならないだろう。


(おわり)

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