2004.08.15 王寺賢太

共和国の黄昏、歴史の曙光

初出:週刊読書人連載「モナドの窓」2002年4月

食べることと喋ることの他には政治が数少ない趣味のひとつであるフランス人にとって、七年ぶりの国民的イヴェントとなるはずの大統領選挙がいっこうに盛り上がらない。「極右」から「極左」まで史上最高の十六人の候補が顔を並べているのだから政治家達の情熱は衰えているようには見えないのだが、棄権率は第五共和制となってからは過去最低だった1969年の22,4%を遥かに上回る数字-40%とも言われる-が見込まれているらしい。

「左右共存(コアビタシオン)」の政権下の現職の大統領と首相の対決が強調されるなか、すっかり共和主義の語彙に馴染んだ「極右」候補が「国民」の尊重を求めて相変わらず移民の攻撃を繰りかえす一方で、「極左」候補は内閣を組織している社会党・共産党・緑の党の「左翼」政党批判を展開してそれぞれ支持をのばし、他の議会政党の候補を抑えて第三、四位の支持率を誇っている。候補の乱立と相まったこの現象にジャーナリスト達はこぞって代表制の危機を心配してみせるのだが、より一層重要なのはこの選挙の中心的な問題設定の方だろう。かつて「社会的な分断」の「連帯」による乗り越えを語っていたはずの現大統領は、今や所得税の大幅減税と国営事業の「効率化」による「ダイナミックなフランス」を求める傍らで、「治安の悪さ(アンセキュリテ)」の「警察」力の増強による乗り越えを提起しており、こと「治安」に限って言うならばその問題設定は他の候補たちにもほぼ一様に受け入れられているからである。

一方、先頃晴れてコレージュ・ド・フランスの教授となったピエール・ロザンヴァロンは、その就任講議の中で、「代表」のないところに「人民」はなく、代表制とそこで展開される分裂を孕んだ議論によってはじめて「政治的なもの」の次元が成立するのだ、とそっけなく言いのけている。『ギゾー的モーメント』を主著とするこの政治思想史家にとって、民主主義とは「権力と法、国家と国民、平等と正義、同一性と差違、市民権と公共道徳」をめぐって過去二百年に渡って繰り広げられてきた「名士」たちの「構成主義」的( !?)で際限のないおしゃべりに帰着するのだ。その政治的自由主義が前提としているのは、国家の次元に立つ「名士」たちの言説が各々の立場の違いを通じて国民の全体を代表し、かつまたその全体を富の再分配をはじめとする様々な政策に従って「構成」するとともにそれを統治するという閉じた円環である。しかし「名士」たちが「治安の悪さ」という名のもとで「国民」の一部を「危険な階級」として選別しその管理することを目指している現在、ロザンヴァロンの命題の行き詰まりは明白であるように思われる。「歴史」を政治的な語彙の連続性と変化のうちに解消してしまうゆえに決定的にコンサヴァティヴなものと成らざるをえない彼の自由主義に対しては、やはり数年来ネグリやランシエールたちが説いてきたように、むしろ代表されえぬもの、言説化から漏れ出るものの側に「人民」はあり、「民主主義」とは「名づけえぬもの」の次元が自立して存在し、それが言説の中に囲い込まれた矛盾さえ突破して展開することを認めるところに始まる、ととりあえず言っておかなければならないだろう。

むろん今回の選挙において棄権者は単にフランスの中で周縁化されたマイノリティたち(しかしその総数は四百万人と言われる)だけではなく、むしろ大都市の高学歴"高所得者の間に広がっていることをジャーナリスト達はいささかの驚きを持って伝えている。しかし、まさにそれゆえに、今回選挙の大量の棄権の背景には、市民として共和国に対してまず自らを位置づけるフランス人の主体のありかたが決定的に過去のものになりつつあること、共和主義の逡巡する"それゆえに一層強化された伝統を誇るフランスにおいても、アメリカや日本その他と同様に代議制民主主義がゆっくりと老衰しつつあることを告げている。それはマキャヴェッリ以来、政治体に対していかに主体を位置づけるか、という問題を巡って展開されてきた「政治」についての思考が大きな転換期に差しかかっているということでもあろう。おそらく、未来の地平は代表する「極右」の側でも「極左」の側でもなく、国家に対して自らを位置づけようとしない「声」=「票」(ヴォワ)なき衆生の側にあり、そこでは「政治」はもはやわれわれが見知っているのとは異なった何かになってしまうだろう。「彼らはどこに行くのか?」--- その問いに対しては、晩年のディドロの破天荒な小説にしたがって、こう答えておくことにしよう。--- 「そういうあなたは、自分がどこに行くのか知っているのか? 」


(おわり)

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