2004.07.14 王寺賢太

ポーコック『野蛮と宗教』紹介

「啓蒙の大きな物語」とは何か

初出:週刊読書人連載「モナドの窓」2000年6月9日号

J.G.A.ポーコックが昨年出版したギボン研究『野蛮と宗教』の最初の二巻、『エドワード・ギボンの啓蒙』と『文明的統治の物語』を読んだ。ポーコックは『マキアベリアン・モーメント』(74)で、西ヨーロッパの初期近代の政治思想をつらぬく古典的共和主義の伝統を提示して、思想史と政治哲学の考察に大きな影響を与えた歴史家である。四半世紀後に出版された二巻は、『ローマ帝国衰亡史』の著者の思想的バックグラウンドを記述し、ギボンにおいて「キリスト教ミレニアム」の歴史叙述へと結実する「啓蒙」の「物語」についての壮大な歴史叙述の企ての端緒をなす。

この試みを、著者自身は『マキアベリアン・モーメント』の対照物(カウンターパート)として位置づける。その大著においてポーコックは、土地を所有する市民が自治や軍事への参加によって公共善に献身することにおいてポリスの中で全人的な完成を遂げる、という道徳論の図式を古典的共和主義の核心に置き、それが十七世紀イギリスの封建的な郷紳たちに受け継がれたことを指摘した。この伝統は、十八世紀のグレート・ブリテンの商業帝国のもとでの所有の流動化と政治・軍事的権力の「議会における王」への集中をうけて深刻な異議申し立てにさらされる。啓蒙は、古典的共和主義の止揚のために、商業と文化の発展と、個人に富の享受を許す政治的秩序の安定を、「文明化」として肯定する言説を創出したのであり、そこでは「歴史」によって規定される人間の存在様式が「習俗」の名の下に対象化された。『野蛮と宗教』は、この古典共和主義の対照物(カウンターパート)としての啓蒙を、哲学者たちの歴史叙述の側から記述するものだ。

『野蛮と宗教』を読むためには、各々の巻の表題の「啓蒙The Enlightenments」と「物語 Narratives」に複数形の「s」が付されていることに注意が必要だろう。実際、第一巻では、社会批判を実践し、近代化を提唱する世俗的な知識人としての「フィロゾフ」の有無に「啓蒙 The Enlightenment」の指標を見る通説に批判を加える観点から、王党派の家に生まれながら若くしてカトリックに改宗し、父によってスイスに送られたギボンの足跡をたどり、まず「恩寵」による神と個人との直接的な関係を強調するカルヴァンのラディカリズムの批判が、プロテスタント内部での「啓蒙」として存在したことが示される。そのプロテスタント共同体に宗教論争に端を発する「考証学」(エリュディション)の一つの起源を確認したポーコックは、ギボンを追って舞台をフランスに移すと、アカデミーを拠点とする考証学者たちとサロンに集うジャーナリスティックなフィロゾフたちの対立に焦点を当てる。考証学者と同時に社交的なジェントルマンであろうとしたギボンが、アナクロニックかつアクチュアルな言説としての歴史叙述の探究に向かう出発点は、この対立に求められるのである。

第二巻では、ジャノーネ、ヴォルテール、ヒューム、ロバートソン、スミス、ファーガソンに即して「啓蒙」の「大きな物語」(マクロ・ナラティヴ)が「野蛮と宗教」の「キリスト教ミレニアム」から脱出する「ヨーロッパ」の「文明化」のシナリオとして分析される。そのシナリオによれば、一方で、古代共和国の帰結であるローマ帝国、ラテン中世における封建制とローマ教会の支配、近世の世界帝国への野望が、主権国家の分立・共存する「ヨーロッパ」の誕生に向かい、他方で、主権国家は宗教戦争をもたらした宗派間の争いから独立した政治空間を獲得するにいたる。この「近代」の「ヨーロッパ」を可能にするのが「商業」であり、それによって共有された「習俗」である。こうした「啓蒙」の「大きな物語」(マクロ・ナラティヴ)は、ルイ十四世の覇権を退けた後の十八世紀ヨーロッパの哲学者の共通了解とされるのだが、この巻においてスリリングなのは、むしろそれらの「物語」が接したさまざまな臨界の認識である。例えば、ヴォルテールにおけるロシアの拡大の肯定と遊牧の中央アジアの抹消。ヒュームと女性読者層の誕生。スミスによるヨーロッパ史からの「未開」(ソヴァージュ)の消去。あるいは、文明化を古典的な自由の喪失として見るファーガソンの懐疑。その探究は、歴史家=哲学者としてのギボンが、なぜ「キリスト教ミレニアム」それ自体の、しかもラテン中世ではなくアラブやトルコや中国と踵を接するビザンチン帝国の歴史を書くにいたったのか、という問いに活気づけられている。

「歴史」の経験と叙述の本質をこの臨界の認識に見るニュージーランド出身の歴史家に、ギボンの信じた「南半球のヒューム」の到来を認めることが出来るかもしれない。小さな「s」を大きな物語に統合するその力業は、凡百のポーコック派や思想史家には見られない緊張を孕んだポーコックのエクリチュールに支えられている。その一文を引く。「ブリテン人はフランス人を洗練と見たからフランス崇拝に屈し、フランス人はイギリス人を自由で有徳と見たからイギリス崇拝に屈した。しかし、一方を堕落、他方を野蛮と見ることも出来たのだ。この文化的な緊張-矛盾とは言わないにせよ-のなかでこそ、歴史は生きられ、かつ、書かれねばならなかったのだ。」


(おわり)

[PAGE TOP]
[BACK]