2004.05.16 王寺賢太

チャドルの向こう側

セバスチアオ・サルガドの写真から

初出:週刊読書人連載「モナドの窓」2001年10月12日

まず一つの写真について、記憶にしたがって書くことにしたい。モノクロームのその写真の中では、抑制された灰褐色を背景に二人の人物が映し出されていた。一人は椅子に腰掛け、もう一人はその傍らに寄り添うようにして立っていたのではなかったか。二人は頭上からすっぽりとチャドルをかぶり、頭部を覆い隠している。頭部だけではない。全身が厚手の一枚布に覆われたその二人の人物像からは、わずかに顕わになった両手をのぞく、身体のあらゆる部分が他者の視線から隔てられている。こちらの視線に曝されているのは、ただその二人の人物のまとうざっくりとした布の濃淡異なった色調と、その上に描き出された襞の織りなす陰影だけだ。

たしかその写真には、アフガンの女たち、というタイトルが付されていたと思う。その写真を見たのは、『エキソダス』と題されたブラジルの写真家、セバスチアオ・サルガドの展覧会であったにちがいない。その記憶を呼び起こされたのは、九月二九日にパリで行われたアフガニスタンの女性の人権の擁護を求めるデモを伝えるニュースの中で、件の写真がプラカードを覆っているのを認めたからだ。

フランスでは数年前から、イスラム原理主義を奉ずるタリバンのもとでアフガニスタンの女性がおかれた状況を人権侵害として糾弾する人権団体の運動が続いていた。署名の呼びかけを私自身も受け取ったことがあるが、私はその呼びかけに応じなかった。言論の自由や行動の自由を奪われたアフガンの女たちのおかれた現状が人権侵害にはあたらないと考えたからでも、イスラム原理主義を文化的な多元主義の観点から肯定できると考えたからでもない。私は、自国ではそれが保証されているという前提に立って、異国と異文化に属する女性たちを「人権」という普遍概念に基づいて「救おう」とする人権活動家たちの「善意」と「正義」に、嫌なものを感じたのだ。緑の党によって主催され、多くの参加者を集めた今回のデモについて感じたのも、同様の、いやむしろそれ以上の「嫌なもの」にほかならなかった。

九月十一日のアメリカ合州国でのテロ以来、合州国政府はテロをビン・ラディンの率いる「テロリスト集団」によるものと決めつけ、彼らを匿っているとされるアフガニスタンのタリバン政権を軍事的な報復の対象として宣言している。フランス政府はしたたかに合州国の武力行使への協力から逃れたが(しかしそれは望まれもせぬ自衛隊の海外派遣を決めた日本政府に比べれば、どれほど「賢明」な選択だろうか)、メディアにおけるビン・ラディン、およびタリバンをはじめとするイスラム原理主義の悪魔化においてはアメリカのメディアに譲るところはない。そのような状況下で、アフガニスタンの女性の人権擁護を訴えることは、合州国の戦争と報復の言説から一線を画しながらも、イスラム原理主義のもとで「抑圧」される側に立ち、それを普遍的な人権擁護の言説によって「救われる」べき存在と見なすことによって、自らの天使的な立場を保存したままに、流通するイスラム原理主義の悪魔化に加担するものと言っていい。人権活動家たちの主張が、あくまでもイスラム原理主義のマッチスモに向けられたものに過ぎず、それがイスラム原理主義の土壌となっている南北問題や、彼らの人権擁護の言説自体を可能にしている資本主義先進国のリベラル・デモクラシーへの批判を欠いているだけに、その「善意」によるイスラム原理主義の悪魔化への加担は一層問題をはらんだものと思われたのだ。

おそらくデモのプラカードにサルガドの写真を掲げた人権運動家たちは、そこに表情ひとつ顕わにすることのできないアフガンの女たちの「抑圧」の現状のシンボルを認めたに違いない。たしかに、ユニセフの専属カメラマンのようにして世界各地の難民キャンプや戦災の地をめぐり、難民や被災者たちにフォーカスをあわせるサルガドの写真には、その端正な映像にも関わらず、被写体の人物たちをあたかも「哀れむ」べき対象として提示し、観客の「善意」の共感を獲得しようとするようなヒューマニスト的な傾きがないわけではない。しかし同時にサルガドがそのような「善意」による被写体の表象=支配を慎重に回避しようとしていることもまた事実であり、その批評性は往々にして、ファインダーを見つめる前景の被写体の背後に映し出された第三者たちが、前景の表象=支配関係に対して投げかける冷めた視線によって担われている。その視線は、まさに美術館の中で写真を見る観客の「善意」の視線それ自体に斜交いから批判を差し向けるものだ。そのようなサルガドの作品群にあって、すっぽりと全身を覆われたアフガンの女たちの写真は決して単に彼女たちの「抑圧」の現状を、その外部に立った観客の「善意」に向けて伝達しようとするものではありえない。その写真に認めるべきなのはむしろ、観客の視線を拒み、その「善意」による簒奪を拒みながらなお、厳として存在している女たちの視線なのだ。現に女たちの頭部を覆うチャドルのちょうど眼にあたる部分は格子状をなして暗い空白を形作っている。観客は女たちの眼を見ることはできない。だが女たちは、チャドルの向こう側から何かをはっきりと見ているのではないか。

サイードがかつて語ったCovering Islam(イスラムに覆いを掛ける=イスラム報道)が、現在再び大規模に、複雑さを増した様相で世界を覆いつつあるようにみえる。そこでは「敵意」のみならず、「善意」までもが覆いの厚みを増すことに加担している。しかし、チャドルに覆われた向こう側からの視線が、まさにそのようなcoveringに対する拒否であるとしたらどうか?そしてまた、その視線の存在を認めることこそが、チャドルの向こう側の「顔」を見いだすために必要な最初の一歩なのだとしたら? 合州国のテロに始まる今回の一連の国際的な騒動は、「善意」による他者の「顔」の剥奪が決定的に無効を宣告されたこと、またわれわれが今後「顔」の見えない他者たちとの熾烈なコミュニケーションを開始しなければならないということを告げているのではないか。


セバスチアオ・サルガド「エキソダス」
http://www.terra.com.br/sebastiaosalgado/f1/index.html

(おわり)

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