2004.01.29 王寺賢太

危機の諸相

フランス思想の世紀末

初出:週刊読書人連載「モナドの窓」1997年11月7日号

六八年五月からまもなく三十年、フランスで「六八年の思想」、日本で「現代思想」という符牒の下に総称されたフランスの思想家たちの多くは既にこの世を去り、現在のフランスはその在庫整理に追われている。

その目録を取り急ぎ作成してみよう。ラカンに関してはセミネールの編集が続けられている他、ルディネスコの仕事ぶりが目覚ましく、フランス精神分析の歴史、ラカンの伝記に続いて『精神分析辞典』が現れた。既に伝記の邦訳もあるバルトは全三巻の全集も完結し、フーコーの膨大な量の記事、対談などをまとめた『言われたことと書かれたこと』に続いて今年からコレージュ・ド・フランスでの講義録の出版が始まった。アルチュセールの著作集は未刊行草稿も含めて完結し、既刊のイデオロギー論を含んで構想された一巻『再生産について』も陽の目を見た。ドゥルーズについては晩年テレビ放映用に収録されたヴィデオ(『A.B.C.D...』)が発売されているほか、バディウの『ドゥルーズ』を始め幾つかの研究書が公にされている。レヴィナスには、既に生前からユダヤ主義、現象学、解釈学、さらにはハバーマス流の間主観性の哲学の信奉者まで含めた幅広い分野の哲学者たちがオマージュを捧げているが、ここではただ一つリクールの最新刊『他の仕方で』を挙げておこう。

こうした在庫整理の傍ら、近年のフランスの言論界においては政治哲学の覇権が著しい。フランス革命の二百周年でもあった八九年後のソ連・東欧の共産主義体制の崩壊はフランス政治から体制選択のオルタナティヴを消したが、冷戦後のフランスは、失業、移民、極右国民戦線の伸張、高福祉体制の行き詰まりなどの難問を抱えて99年に予定されているヨーロッパ通貨統合の基準さえ満たすことができずにいる。シュトラウス、アーレント、ポーコック、テイラー、ロールズなど英米系の政治哲学の大幅な移入を伴って展開されている現在のフランスの政治哲学は、共産圏の崩壊と内政の苦境というこの二重のコンテクストの産物だ。「六八年の思想」がマルクス、フロイト、ニーチェそしてハイデガーの思考を糧としながら、市民社会の均質性の偽りを暴き、普遍的な真理を表象によって基礎づける主体の自明性に疑問符を付して徹底した表象装置の批判を第五共和制に突きつけたのに対して、現在の政治哲学者たちは誰もが最早否定することのない民主主義の理念を現在のフランス共和国の中にいかに実現ないし維持していくかに腐心している。

例えば先頃急逝した革命史家フュレ。彼は政治的な言説に社会や経済の矛盾を遡及的に分節化しさえする自律した機能を認め、その次元に政治的問題の構成の条件を見ることによって、革命期以降のフランス政治史学を一新した。しかし、テロルへと至る革命の「逸脱」を禁じつつ、革命のもたらした個人の自由・法の前の平等といった理念をいかに制度的に確立・維持するか、あるいは、いかにして革命を終わらせるか、フュレが19世紀フランス史を貫くテーマと見たその課題は、自らがかつて共産党の活動家として夢見た革命に対して彼が背負った課題でもあった。そして『幻想の過去』と題された遺作において、フュレは十月革命のヨーロッパの知識人に与えた影響を後づけながら、ついに「革命」という「幻想」の終わりを語ることになる。

また、70年代からソ連の全体主義批判を中核として民主主義論を展開してきたルフォールやマルセル・ゴーシェらはフランス共和主義の理論的枠組みを構築している。ゴーシェは民主主義の根幹に対立するものの共存を据えたルフォール『民主主義の発明』の教えを受け継ぎつつ、社会的矛盾を表象しつつ社会の同一性を保証し、その矛盾を漸進的に乗り越えていく機能として国家を定義し、国家と社会の間に相互反省的な弁証法を設定する。さらに彼は権力分立の制度を主権国家の次元に内在する権力の制限の機構と見て、「法治国家」に民主主義の具現を認めるのだ。(『世界の脱魔術化』、『権力の革命』。また『人間精神の用法』は、精神病院という制度の成立に、理性による狂気の排除ではなく、理性による狂気の取り込みとその帰結としての理性の分割を探りあててフーコーの『狂気の歴史』に対する疑義を提出する。)しかし、様々な矛盾は常に国家と社会の循環のなす制度の同一性の中に囲い込まれる相対的なものにとどまるだろうか。制度の同一性に回収されえないような差異は、あるいは「革命」の可能性は、本当に幻想として潰え去ったのか。

ここで例えばナンシーやイタリアの哲学者ジョルジォ・アガンベン(『到来する共同体』、他に『聖なる人』は主権のパラドクスを論じる)の共同体論を、ハイデガーの共同存在論を参照しながら、いささか性急な仕方で国家と社会のなす社会民主主義的な枠の外での政治的思考を目指したものとして読んでみることもできよう。一方ネグリは、より具体的に過去の政治哲学の著作との対質を行いながら、政治共同体自体の存在論的次元を問う書『Le pouvoir constituant』を発表している。このタイトルに用いられた語はフランス革命史などにおいては「立憲権力」と訳すのが普通だろうが、ネグリは民主主義の根幹と言えるこの権力を単に法的な次元に格下げし、それを例えば「立憲議会」のような形で制度的に表象可能なものとして捉えるのではなく、まさに民主主義が前提とするような「多数性」からなる社会を形作る力、「多数性」の側に常に留まり続ける「構成する力」として捉えることを提言する。そしてネグリは、政治制度の内に決して制度化されない形でこの「多数性」の「構成する力」が留まり続ける点に民主主義の本性を見ようとするのだ。既成の政治体制に回収されえない矛盾はありうる、つまり、「革命」は決して終わらない、そうネグリは言い切るだろう。このネグリの著にその訳者でもあるバリバールの普遍主義についての思索をつきあわせることもできよう。近著『大衆の畏れ』においてバリバールは人権宣言などに見られるフランス共和国の普遍主義を脱構築的に活用しながら、それをフランス共和国の外へと向けて開いていくことを目指している。その思考は移民問題が焦点化され人種主義が高まりを見せるフランスの現在において、共和国の境界そのものを問い直そうとする動機に活気づけられている。

そしてデリダ。加速度的に増加する著作の量とは反比例するようにデリダの読者が減少する今も、支配的な言説に対する一歩後退から、そこで考えられていないことへと向かって思考を開こうとするデリダの批評的アンガージュマンは続いている。例えば『アルシーヴに憑かれて』。現在博物館となっているロンドンの旧フロイト邸でルディネスコの前で発表されたこの講演は、精神分析の家父長制的性格とさらには歴史叙述の線型性に対して、それらを構成すると同時にそれらが抑圧するアルシーヴの無際限な開けをまさにフロイト的・精神分析的に語るものだ。あるいは『友愛の政治学』。ここでデリダは公的空間と私的空間の、国と国の、共同体の、男と女の、生者と死者の、これら様々な境界を横断する関係として「友愛」を-「博愛=兄弟愛」ではない-を持ち出して現在の政治哲学の主要概念を揺るがせ、さらにC.シュミットの友・敵理論を換骨奪胎しながら政治についての考察を一国のモデルで進めようとする現在の潮流に異議を表明している。そのデリダのもう一つの近著を、これはタイトルだけ引いておこう-『万国のコスモポリットよ、もう一息努力を!』。

朧気にイデオロギー的な対立が形を取り始めた、現在のフランス思想はそのような状況にある。そして、この状況において現れているのは、フランスをローカルな存在として飲み込んでいく世界史の過程の中でのそれぞれの危機の意識にほかならない。


(おわり)

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