2003.11.23 北川裕二

エキシビジョンというアンチノミー
  ──アンチノミー展を巡って

会場:ギャラリー『オブジェクティブ・コレラティヴ』(東京・四谷)
日程:9月19日(金)〜10月25日(土)
情緒を芸術の形式に表現する唯一の方法は「客観的相関物」を見つけだすことである。言いかえれば、特定の情緒のための方式となりうるような一組の事物、情況、あるいは一連の事件が必要であって、感覚的に経験される或外的事実があたえられると、すぐそれに応じた情緒がわれわれのうちによびおこされる、ということにならねばならないのである。
──『ハムレット』T・S・エリオット
しかし、芸術家としてその詩人が完璧であればあるほど、経験する人間と、創造する心とがより完全に分離してゆくであろう。この心が素材であるもろもろの情熱をより完璧に消化し、変化させてゆくであろう。 ──『伝統と個人の才能』T・S・エリオット

今年9月に、四谷にある近畿大学人文科学研究所の分室、東京コミュニティ・カレッジが主催・運営するギャラリー『オブジェクティブ・コレラティヴ』(客観的相関物)が、そのこけら落としとして、岡崎乾二郎の監修による『アンチノミー展』を開催した。カントの呈示したアンチノミー(二律背反)を基に、ルネサンスから現在の作品、デューラーから豊島康子、あるいはそれに続く若手作家たちに至るまでを、同時に概観してみようとする大胆な試みである。

岡崎によれば、ここで言うアンチノミーは「普遍的規範の確立と特殊なる自然の描写。『芸術』は普遍的法則の呈示でなければならないが、同時にいまだ捉えられたことのない感覚の自由な戯れの実現でなければならない」。アンチノミーの「露呈」はしかし、「不可能な対象(仮象)として『芸術』が捉えられるとき」にのみ「生産的に解消される」。こうした批評的な野心、大胆な試みは、ともすると大袈裟になりがちで、企画倒れに陥ることしばしばだが、岡崎の明解な「批判的な視点=視差」が冴え、抑制された展示によって、『アンチノミー展』は見事に成功したと言えるだろう。

企画にあたり導入された作家・批評家は以下である。デューラー、カント、ディドロ、高橋由一、クールベ、セザンヌ、デュシャン、ケージ、グリンバーグ、マザウェル、柄谷行人、鈴木了二、津田佳紀、豊島康子、窪田久美子、森田浩彰、橋本聡、草刈思朗など。名前だけを見れば、これらの導入はあまりにも広範な領域に跨っているため、一見恣意的で支離滅裂にさえ見える。それは会場においても同様の印象を受ける。さまざまなアンチノミーの散漫な呈示のように見えてしまうのだ。これらの作品・資料はクロノジカルに展示されてはいないため、鑑賞者は歴史を辿って芸術のアンチノミーを理解していくことはできない。むしろ展示は、次のような「批判的な視点=視差」を鑑賞者に求めている。つまり、このエキシビジョンに展示された作品・資料のみがアンチノミーを把握させるのではなく、相互に矛盾さえもたらす作家や作品を並置することで、このエキシビジョン自体が、ひとつのアンチノミーを「露呈」しているということを。エキシビジョンというアンチノミー、それへの「視差」を得なければ、「仮象としての芸術」が捉えられることはない。なぜなら、その場における<今・ここ>こそが、作品と批評の出会う場所であるからだ。

それは草刈思朗によるトランスミッターを使用したサウンド・インスタレーション『Trans Mittel』で、柄谷行人が朗読するカントのアンチノミーを聞きながら会場を巡れば明らかだ。『アンチノミー展』は、鑑賞者に対して、エキシビジョンというメディアのもつ重要な機能、すなわち「場の経験を体験」し意識化させることで、「批判的な視点=視差」つまりは作品に対峙する批評の場を具体的に生産しようとしているのである。ここから推測できるのは、このエキシビジョンでもっとも重大なアンチノミーとして示唆されているのは、作品と批評の乖離、このことのアンチノミーであるように私にはおもえる。作家であれ、批評家であれ、そのアンチノミーの生産的な解消こそ、私たちが依然取り組まなければならない「今日的な課題」なのである。

このことは、今回のカタログを丹念に読めば、より一層明確に把握できる。そこでは従来の美術批評の習慣において対立してきた者(例えばデュシャンとグリンバーグ)に、アンチノミーという概念を導入することで、アクロバティックではあるが、スリリングな連続・不連続性をもたらしている。このアンチノミーの導入による連続・不連続性の正確な理解とその使用によって、美術批評(及び作品制作)への新たな地平が拓かれようとしているのかもしれない。というのも、今回の展示で試みられたアンチノミーの導入は、コンセプチュアル・アート以後の作品と批評に一つの布石を確実に投じたからだ。このことの美術における批評的な意義は大きい。

ここで私がコンセプチュアル・アートを参照するのは恣意的ではない。かつてジョゼフ・コススは『哲学以後の芸術』で、芸術とはトートロジー(同語反復)であり、芸術とは芸術の定義であると言っていた。この論文で重要なのは、ヴィトゲンシュタインへの言及などよりもむしろ、カントの行った分析と綜合の区別に関わるA・J・エイヤーの論文に言及しつつ、理論を展開したことだろう。そこでは綜合的命題ではなく、分析的命題が上記のような定義を導き出すとされていた。それはトートロジーに対するアンチノミーという概念、さらにはカタログに掲載された岡崎の論文『準備と注解』で言及されている反省的判断力の論旨と相容れないことは明白である。70年以後、コスス自身さえ上の定義から転回するのだが、敢えてここで取り上げるのは、コンセプチュアル・アートの“祖”とされるデュシャンが、『アンチノミー展』においても重要な機能を果たしているからだ。津田佳紀、豊島康子以後の若手作家と、それ以前の作家を結びつける作家と言えば、ここではデュシャン以外には考えられない。というのも、若手作家たちの作品を見る限り、明らかにそれらは「コンセプチュアル・アート以後」と言えるような方法を採用しているからである。ここでもデュシャンは「蝶番」の役割を果たしているというわけだ。デュシャンはピエール・カバンヌとのインタビューで次のように応えている。

「ウィーンの論理学者はある体系を練り上げたわけですが、それによれば、私が理解したかぎりでは、すべてはトートロジー、つまり前提の反復なのです。数学では、きわめて単純な定理から複雑な定理へといくわけですが、すべては最初の定理のなかにあるのです。ですから、形而上学はトートロジー、宗教もトートロジー、すべてはトートロジーです、このブラック・コーヒーを除いて。なぜなら、ここには感覚の支配がありますから。」

デュシャンはこの言及で、このブラック・コーヒーが存在する限り、トートロジーは完結しないということを言っている。それは分析的でトートロジカルなコンセプチュアル・アートは成り立たないということを、デュシャン自身が表明していると受けとめることができる。言い換えれば、デュシャンがこのように言うことできたのは、トートロジーの本質をつかみ、既にコンセプチュアル・アートの限界さえ捉えていたからだ。[*1]つまり、このブラック・コーヒーは「あなたが得る感覚を普遍的なものであるように経験すべし」という格律のための<条件>、すなわち「客観的相関物」であるということである。そこでは反省的判断力の機能が問われているようにおもえる。今回展示された「コンセプチュアル・アート以後」の作家たちが試みていることは、素材がクレヨンや鉛筆、あるいは鏡や株式投資であれ、いわばデュシャンが言及したこのブラック・コーヒーであろうとしているということなのである。つまり、ブラック・コーヒーの、まずい(苦い)-うまいという感覚の「経験が与える自然のきわめて多種多様な変異-特殊」なる属性から発生するアンチノミーに焦点を合わせているということである。

今回の展示はまた、現在、美術批評で脚光を浴びているティエリー・ド・デューヴの一連のデュシャン論に刺激を受けたものであるとも言える。従来、美術批評におけるカントの導入は、もっぱらグリンバーグの掲げるフォーマリズムの視点から言及されることが主であった。しかしド・デューヴは、そうした立場に対して、デュシャンの作品(とりわけレディ・メイド)をカントの批判哲学に接合させることで、フォーマリズムと反フォーマリズム(ダダ)という対立的な図式に揺さぶりをかけようとしたのである。岡崎の『準備と注解』を読めば、このド・デューヴの批評に対して、それへの反駁(視差?)として意識的に『アンチノミー展』を企画したことが理解できる。つまり、今回の展示で意図されている「視差」の獲得は、ファーマリスティックな作品とダダ的な作品が、実はアンチノミーにほかならず、それらはどちらも捨象することはできず、むしろこのアンチノミーを確保する「仮象としての芸術」の空間の<仮設>こそが問われていることを意味するのである。

例えばそれは、ロバート・マザウェルのような作家の作品を、今回の企画に取り込んだことからも窺える。マザウェルといえば、抽象表現主義、あるいはポスト・ペインタリー・アブストラクションの代表的な作家たち、ポロック、ニューマン、ロスコ、ルイスなどの後方に位置づけるられることしばしばである。しかし、マザウェルはそうした作品を制作しつつ、一方で終生デュシャンと交友を持ち、彼の協力のもとでダダのアンソロジーの編集などもしている。このことから知れるように、同世代の作家たちよりも、むしろダダイストやシュルレアリストの方に、芸術に対する考え方は近かったといえるのかもしれない。そしてカタログにおいては、抽象表現主義を評価した批評家グリンバーグの批評理論も取り上げられており、簡単ではあるが、それゆえに要所を得た彼の批評に対する批判的見解が掲載されてもいる。

『アンチノミー展』は、文化・芸術が暗礁に乗り上げ、停滞しているかに見える現状の元凶のひとつとして、批評におけるカントの誤用があることを明らかにし、その誤用を糺すことで、停滞を超えようとする、一見地味ではあるが、実のところ野心的な試みである。それはグリンバーグやド・デューヴとの、あるいはコススとの視差を産みだす「客観的相関物」を呈示することで、作品/批評のパラダイムを組み替えようとしているのである。ギャラリー・オブジェクティブ・コレラティヴに今後があるとすれば、エキシビジョンというアンチノミーの振幅(複数のアンチノミーが重層する事態)をどれだけ展開=拡張できるかにかかっている。そして、それがうまくいけば、ギャラリー・オブジェクティブ・コレラティヴから、おそらく思っても見なかったかたちで、文化・芸術の停滞は回避されていくであろう。

*1 ピエール・カバンヌによるマルセル・デュシャンへのインタビューが行われたのは、コススが『哲学以後の芸術』を書いたのと同じ1966年である。しかし、デュシャンがコススの論文を読んでいたとは考えられない。

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