2003.09.15 北川裕二 | ||
ジョアン 声とギター
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数年前まで、来日はあり得ないといわれていた“ボサノヴァの創造神”ジョアン・ジルベルトが、今年9月に初来日を果たし、コンサートを行いました。四回のコンサートのうち、三回は東京国際フォーラム、一回はパシフィコ横浜。一番近い席が取れたので(といっても遠かった)、私はパシフィコ横浜へ行きました。72才という高齢にも関わらず、レコードから伺い知れるように、ジョアンの演奏は完璧というほかないものでした。そして、このコンサートは、伝えられる数々のエピソードどおり、最初から最後まで、ジョアンならではというものでもありました。 会場に入る扉の脇の貼り紙にこう記されています。「アーティストの要望により、今回の演奏に限り会場内の空調を止めています。なにとぞご了承願います」。私はニヤリとしてしまいました。というのも、彼が演奏の妨げになるからといって、コンサート会場の空調を係員に止めさせたことがあるのを知っていたからです。CDではカットされてしまいましたが、JOAO GILBERTO PRADO PEREIRA DE OLIVEIRAのライブ盤には、「冷房を切ってくれ。このままでは最後まで歌えないかもしれない。冷房なんかなくったって、誰も死なないさ」と語るジョアンの言葉が収録されていたそうです。場内でも、貼り紙と同じ言葉がアナウンスされ、会場はざわつきました。 コンサートのカタログを購入し、席に座って開演を待ちます。開演は5時です。ところが5時を過ぎてもジョアンはまったく出てくる気配がありません。どうしたことでしょう。すると、またアナウンスが流れました。「開演時間が遅れていることをお詫び申し上げます。アーティストは、現在こちらの会場に向かっております。今しばらくお待ちください」。拍手をする者、笑っている者。会場はまたもやざわつきます。皆ジョアンのことを知っているのです、時たまコンサートをすっぽかしたりすることを。恐らくこのときのざわめきは、開演が遅れてはいるものの、演奏が聴けることは確実となったということに対する安堵感を、観客が一斉に現したのでしょう。私にしても、この日まで、ジョアンは本当に来日するのかと訝ることしばしばでしたから。 それから40〜50分たった頃、三度「アーティストは、只今当会場に到着いたしました。現在、演奏の調整に入っております。今しばらくお待ちください」というアナウンスが流れました。このアナウンスを聞くやいなや、場内は大変な盛り上がりになってしまいました。まだ演奏も聴いていないというのに、拍手大喝采です。椅子ひとつがただ置かれただけのステージはまだ暗いにも関わらず、「ジョア〜〜ン!」などと叫ぶ人続出。私の体も震えてきました。開演時間を1時間以上過ぎて、いよいよ座席側のライトが暗くなりだしました。と同時に、ステージに照明がゆっくり照らされ、落ちついた光をそそぎはじめました。客席も最高の盛り上がりです。なんというのかウォ〜〜〜!といったどよめきです。出てきました。やっとです。渋いグレーのスーツ、左手にヴィオラオン(ブラジリアン・ギター)を持っています。ステージの椅子に腰掛けました。すると座って何秒もしないというのに、いきなりヴィオラオンを奏ではじめたではありませんか。客席は不意を突かれたように一斉に静まり返り、慌てて耳を澄ませす。どよめきから沈黙へのこの一瞬の落差は大変なものでした。というのも、突然の沈黙に、あのヴィオラオンと声が会場に広がったのですから。まさにカエターノ・ヴェローソが言ったように「沈黙をも凌駕するのはジョアンだけだ」ということでしょうか。そして最初に演奏された曲は、なんとSAMBA DE UMA NOTA SO(ワンノート・サンバ)でした。これは意外でした。この曲が入っているライブ盤は存在していないからです。最初から意外性に富んでいました。私は持参したノートに演奏された曲名を記していきました。 しかし、今回の演奏についてどう書けばいいというのでしょう。一曲一曲、詳細に書くことはとても難しい。ジョアン・ジルベルトの音楽については、いずれ別の機会に改めて分析してみたいとおもいます。代わりに坂本龍一が今回のコンサート・カタログに寄せていたメッセージを引用することにしましょう。
「今回のMS2・2003ツアーでは、2カ所でジョアン・ジルベルトと同じステージに立つことになった。モントゥルー・ジャズ・フェスティバルでは最初から最後まで彼のステージを食い入るように見た。 「ギターと歌のリズムの複雑さ」。そう、ジョアンの最大の魅力は、このヴィオラオンと歌が、それぞれ異なるシンコペーションをもっており、それをひとりで同時に、それも完璧にこなすことにあります。より正確に言えば、歌とヴィオラオンのリズムにおける僅かなズレの操作が、ジョアンのボサノヴァに複雑さをもたらしているのです。オスカー・カストロ・ネヴィスの言葉を借りれば、ジョアン・ジルベルトの歌と演奏は、「完璧な相利共生関係にある。と同時にまったく独立してもいる」ということになるでしょうか。彼の音楽は、何気なく聴いているだけでは単なる癒しの音楽のように聴こえてしまうようですが、実際には目まぐるしくコードを変え、独自のハーモニーを創造していることがわかります。「彼は選ぶ和音の転回でメロディーに対するカウンターポイントを創り出しているんだ。驚くべきことに、彼は右手の指の一本一本にまで繊細なバランス感覚を持っているよ。メロディーによってギターの一つ一つのコードの中で、どの音を強調すべきでどの音をミュートすべきか全部分かっているんだ」(ネヴィス)。さらには音が極小であるということは、いかなるミスタッチも目立ってしまうということを意味します。ところが注意して聴けばわかりますが、コードを変えるときの弦を擦ってしまう音は全くしません。今回のコンサートでもほとんど聴かれることはありませんでした。このことは歌においても同様です。徹底していたのは、歌い終わった後も、マイクに拾われないために、彼は掌で口を覆って呼吸を整えるのです。すべての曲でそうでした。そしてその上、会場のほんの僅かなといってもおかしくはない空調のノイズも消すというのだから、いったいどうなっているというのでしょう。
演奏された曲は20曲を越えました。レコードには収録されていない曲も演奏されたようです。最後はあのA FELICIDADEで幕を閉じました。しかし、今回のコンサートで最大のハプニングはアンコールの時に起こりました。演奏曲目が終わるとジョアンはステージを去りましたが、それに応えてすぐに登場。3曲ほど歌いました。ハプニングが起こりはじめたのはその後です。彼は椅子に座ってヴィオラオンを膝上に抱え、腕をだらりと下げ、顔をうつむけたまま、動かなくなってしまったのです。客席からはアンコールの拍手喝采が響き、歓声も絶えません。しかしそれでも彼は微動だにしません。10分ほどたったときでしょうか、客席のなにかに反応して、うつむいた顔をちらっとあげ、そちらの方へ僅かに指をさして、両手で小さく拍手をしたのです。観客はその僅かな動作に応えてさらに一層激しく拍手喝采で応えます。ようやくジョアンは呼吸を整え、演奏を再開しました。最初の曲はインストゥルメンタル(この曲はライブならではのおもしろさがありました。歌わないジョアンの正確な呼吸をマイクが拾ってそれを聴くことができたからです)、2曲目は残念なことに忘れてしまいました。そしてその曲が終わると、またも同様に静止してしまったのです。会場はさらに歓声と拍手の嵐。しかしジョアンは動きません。まったくです。そして、その状態が、なんと30分ほど続いたのです。総立ちとなった場内は異様な雰囲気に包まれ、いったいどうなってしまったのかという様相を呈してきました。オペラグラスで覗いてもジョアンの表情を確かめることはできません。72才、極度の集中力を必要とする演奏スタイルゆえに、動けなくなってしまったのでしょうか。ようやくブラジル人のスタッフがステージに登場し、ジョアンの様子を伺おうと何事かを話しかけています。ジョアンも手招きで応えています。しかしスタッフが去ると、ジョアンはまた動かなくなってしまいました。するとスタッフが再び出てきて優しく肩に手をかけて何かを言っています。スタッフが去ると、なんとまた演奏をはじめようとしているではありませんか。これで3回目のアンコールです。この時の客席の歓喜に満ちた錯乱状態は、言葉には尽くしがたいものがあります。なにせ総立ちのまま、30分も喝采を送っていたのですから。歌ったのはボサノヴァの代名詞やブラジル音楽の古典、CHEGA DE SAUDADE、AQUARELA DO BRASIL、GAROTA DE IPANEMAの3曲でした。演奏が終わるとジョアンはゆっくり立ち上がり、ヴィオラオンをもってステージを去りました。ステージから去る寸前、客席に向かって深々とおじぎをしました。拍手が鳴り止みませんでした。 後日、4日間すべてのコンサートへ行った友人の知り合い(自らもボサノヴァを演奏するマニア)から聞いた話によると、パシフィコ横浜でのコンサートがベストで、歴史に残る名ライブになるだろうということです。そして、彼は前の席だったらしいのですが、あの沈黙の30分間に、なんとジョアンは、観客の反応に感動して涙を流していたのだそうです。(素晴らしい!)。誠心誠意を尽くして、それに観客が応え、そのことにジョアンも感動していたのです。ステレオタイプ化された演奏家と観客の関係、そういったコンサートの風習などお構いなしに、自らがボサノヴァのトップスターであるということなども忘れて、ステージの上で、観客とともに、彼はじっと沈黙を通して感動を現していたのです。おそらくはその拍手のひとつひとつを聞いていたのに違いありません。このようなことは、凡百のミュージシャンにはやはりできないことです。メディアのインタビューには一切応じることのない彼ですが、日本の観客には感動し、また来日したいと言っていたそうです。記憶に残る素晴らしいコンサートでした。 最後にブラジル音楽のライター・翻訳者である国安真奈が、今回のコンサート・カタログに寄せた文章の一部を引用しておきましょう。 ジョアンの記憶力は、恐らく一学術分野の最高権威が持っているのと同じ正確さ、奥深さを誇っているのだろう。そして、彼が専門とする分野、記憶のレパートリーには、40年代から50年代にかけて、彼が青春を過ごした時代のブラジル人コンポーザーたちの作品が、高度に専門化された図書館の蔵書のように整然と並んでいるに違いない。例えば、前述のノエル・ホーザの作品の他、ペドロ・カエターノ&アシール・ピーレス・ヴェルメーリョの「マンゲイラ・エン・フェー」、エリヴェルト・マルチンスの「秘密」、クラウヂノール・クルス&ペドロ・カエターノの「誰かが足りない」、クストーヂオ・メスキッタ&オズヴァルド・フイの「愛を知らない者のワルツ」。あるいは、アリ・バホーゾの「黄金の口のモレーナ」やジェラルド・ペレイラの「約束なしで」、ジャネッチ・ヂ・アルメイダの「エウ・サンボ・メズモ」。どれも、巷ではもう手に入らなくなってしまった曲である。 |
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