2003.06.06 北川裕二

きのこの拡張としての熱帯雨林
 ── 事物/音の宙吊りと散漫な彷徨について

コンサート「デヴィッド・テュードア《レインフォレストIV》」
青山スパイラルホール May 25th, 2003
演奏:小杉武久、ヤマタカEYE、和泉希洋志

現代音楽のいかなる難曲もこなす超絶技巧のピアニストとして活動を開始し、ジョン・ケージとの運命的な出会いを通して数々のコラボレーションを経た後、ピアニストとしての活動をきっぱり止めてしまい(ケージはこのことに批判的であったという)、ライヴ・エレクトロニクスの演奏家・作曲家へと至ったデヴィッド・テュードア(1926-1996)の遍歴とは、まさにモダニストのアポリア――「『名人芸』の段階に『無定形』の段階が続くという動揺」(モヌロ)――の見事な教本のごときものである。

NTTインターコミュニケーション・センター(ICC)で開かれた「E.A.T.――芸術と技術の実験」展の関連コンサート「デヴィッド・テュードア『レインフォレストIV』」は、E.A.T.との関わりが特に深い音楽家であり、E.A.T.の数々のイヴェントやプロジェクトなどに参加したテュードアの代表作である『レインフォレストIV』(1973)を小杉武久、ヤマタカEYE、和泉希洋志の3人によって再演・再現したものである。周知のようにテュードアのライヴ・エレクトロニクスによる作品のほとんどが一回性を重視する。それゆえテュードア亡き後その作品は忘却されてしまうのではないかと危ぶまれていた。しかし、テュードア自身による演奏のための回路図(譜面にあたるもの)が遺されており、生前のテュードアと深い交流のあった小杉武久によって解読され、今回のような再演・再現が実現されることになった。こうしたこと自体が奇跡的であることをまずは確認しておきたい。

演奏は、開演時間ではなく開場時間と同時に始まっており、舞台も観客席もないコンサート会場に入場するやいなや、エレクトリック・ノイズの嵐にとりまかれた。天井からはあたかも現代美術のインスタレーションのように数々の異なる材質・形態の事物が吊るされ展示されており、その様相は強風に吹きとばされ宙を舞う事物をスナップショットしたかのようであった。それらの事物は、互いに離れた場所に位置する――曲のタイミングをはかる視線を交わすこともできない――3人の奏者が発信する複数の信号音にコードを伝ってそれぞれ共鳴する。同様にして共鳴音を事物に設置されたコンタクト・マイクが拾い、奏者にフィードバックされ、エフェクター類の操作によって周囲のスピーカーに増幅された。こうして「題名のとおり、まるで熱帯雨林の中のように、さまざまな動物の鳴き声にも似た、エレクトロニクスによる有機的なノイズが会場をとりまく、エンヴァイラメンタルな作品」を感受することになったのだ。

犬小屋、ドア、本棚、配管、ハンガー、撮影用のパラソル、ゴムボート、携帯式のテーブルセット、輸送用の木箱、電化製品の裏側の金属盤、蝶番で止められた数枚の板など「楽器」となる事物は、奏者によって慎重に選ばれていた(伝え聞くところによればテュードアの「譜面」には使用する事物の指示はないという)。奏者による事物の選択に対して<慎重>と言ったのには二通りの意味がある。ひとつは、回路図を解読した上で音のよく共鳴するものが選ばれているということ。そしてもうひとつは、観客に「視覚的な関心」を引き起こさせないものが選ばれているということである。よく見れば、選ばれた事物のどれもが装飾もポップなイコンも施されていない素気ない日用品であることがわかる。どこかの壁から外されたドアは貧弱な木枠で固定され開け放たれたままなんとか立っていただけであり、古びた輸送用の木箱の蓋は微かに開いた状態で中には何も仕舞われておらず、変哲のない灰色をした円筒の配管は宙に平衡に吊るされて空洞であることが強調され、ステンレスの本棚に本は置かれず、プラスチックの犬小屋に犬は飼われておらず、ゴムボートに人は乗っていなかった。形態から予想される機能も「視覚的な関心」も音による表象性もここでは同時に停止しており、文字どおり宙吊りなのである。しかるに、こうした宙吊りによって確認され問題とされるのは、事物/音の「枠」であるということなのだ。このことが、テュードア――そして彼と記憶を分有する小杉武久――の「楽器」と同時代の彫刻の語法をいちじるしく接近させているのはいうまでもない。

だが、『レインフォレストIV』は、こうした現代美術的な語法を音楽作品にとりこむことに終始しようというのではもちろんない。それよりもはるかな地平を切り開こうとするのだ。いわば事物/音の宙吊りを思いもよらない使用法へと変換するのである。つまりそれは、通常の事物/音の機能を停止させ、そのことによってこそむしろ立ち現れる「枠」という超機能が「世界」といかなる関わりがあるのかを知ろうとすることなのである。どういうことか。観客は、事物の周囲を――美術品を観賞するときのように――「散漫」にさ迷い、各事物に近づくことで、それらと共振するそれぞれの音に耳を傾けることができる。しかし、わたしたちがそうしている時には、実はまだ感覚は束ねられていない。つまり、全体としての「音楽」もインスタレーションも未だ存在していないのだ。聴くことができるのも、見ることができるのも、常に「部分」でしかないからである。したがって、束ねられていない感覚が受容するのは、バラバラに独立して発信される拍子もコードも存在しない周期性の異なるエレクトリック・ノイズの分裂した振動と振幅の群であり、生活から脈絡を奪われた日用品である。美術館のように順路が指示されているわけでもない会場に訪れた観客にしても、決して<観客>として束ねられてはおらず(客席がないのだから)、あたかも商品の陳列されたパサージュを遊歩するフラヌールのごとく、吊るされた日用品の間を各自ぶらぶら歩きをするほかないのだ。

しかし、一方でそうした各自「散漫な受け手」が、次第にそれぞれ見出す各部分へのフェティッシュな拘泥は重要なことを示唆してもいる。それは音に事物にしろ『レインフォレストIV』における「部分」は、「作品」としての『レインフォレストIV』に統合されるのではなく、「散漫な受け手」の身体各器官を通して異なる社会的帰属――習慣(ハビトゥス)――をも示すからである。「散漫な受け手」によって、音は表象としての音楽に統合されるのではなく、むしろさまざまな複数の「社会」に分裂してしまうのだ。ここにおいて「作品」の分裂性は極限に達しているといっていい。ヴァルター・ベンヤミンは『複製技術時代の芸術作品』で言う。「散漫な受け手も、事物に馴れることができる。ある種の課題を散漫な状態ではたしうるということは、この課題の解決が習慣化したというなによりの証拠である。ここで、芸術があたえてくれる散漫な気ばらしを手がかりにすれば、知覚の新しい課題の解決がどの程度まで可能になったかを、吟味することができるだろう」。もちろんベンヤミンはこの言葉を映画に関連づけているのだが、アナーキーでランダムな「世界」――「逸脱をすべて受容しうる」「それら意味の未決定な集合」(デュシャン)――からいかにして「音楽」という時間を枠づけることができるのかという『レインフォレストIV』のような作品を考察するケースにこそ、ベンヤミンの説は有効な視点を提供するのだ(実際その後の歴史をみれば、映画はベンヤミンを裏切っているといえなくもない)。

ノイズからそのシステムを読みとる術を身につけることは、いかにして可能なのか。より厳密にいえば、音楽生成の「起源」としてのノイズから、そのプロセスと環境を構築するための感覚を束ねる統合性を獲得することは、いかにして可能なのか。これこそが20世紀において、作曲家、演奏家はもちろんのこと、聴衆においても課せられた鍛錬なのである。いうまでもなく問題なのは、束ねられていない感覚を束ねる脈絡をもたらす場所はいつどこかということになる。言い換えれば、『レインフォレストIV』の<中で>経験するぶらぶら歩きというパフォーマティヴな行為、ベンヤミンをもじって言えば、「散漫な彷徨」が部分に拘束されるフェティシズムを超えて「作品」の全体性を捉えることのできるコンスタティヴな特異点となるのは、いつどこかということである。問いは難解だが、解答は単純である。だが、単純であるからといって簡単であるというわけではない。正確なリズムを長時間刻むことが単純であるからといって簡単であるというわけではないのと同じだ。しかし、『レインフォレストIV』において見られるのは、それとはまったく反対の困難であるといわねばならない。それは会場内にあってぶらぶら歩く「散漫な彷徨」を、あたかも未知の十字路に出くわしたときのように停止し、さらには茫然として『レインフォレストIV』を聴くことすら宙吊りにするということなのだから。正確に言えば、聴くとも聴かぬともいえない無関心な状態に達しなければならない。この無関心さは、一切の事物/音を同時に受け入れることを意味している。フェティッシュを抑圧するのではなく、「作品」の各部分に拘泥する身体器官に生起する複数の感覚をすべて同時に享受するということである。金属を裂くようなノイズに鼓膜が震え、揺れる犬小屋に眩暈を起こし、犬のように喉が乾いているが、脇腹は妙にくすぐったい。すなわち、あらゆる身体器官が有する異なる受難-情熱が同時に作動していることを受けいれるということなのである。そのとき『レインフォレストIV』の「作品」としての全体性という「形而上学性は、精神に達するのに皮膚を通るほかはない」(アルトー)ことを知るのだ。「きのこ」(ケージ)の拡張としての「熱帯雨林」の生態システム――「彷徨変異」――を学習することは、真に「残酷」なことである。現代のようにとりわけ「堕落した状態にあるときには」。


http://www.emf.org/tudor/
http://www.getty.edu/research/tools/digital/davidtudor/

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