PRACTICE3 | ビデオ・プロジェクター3台 | カラー・サイレント

『The Practice for Exercise ― 鍛練のための実践』

木原 進

『practice 1』
プロジェクターによって映し出された映像内の部屋は、部屋奥のガラス戸がある白い壁面と、映像それ自体が映し出されている展示壁面とが平行関係を保ち、それら二つの壁面を貫く垂直軸を中心に回転している。観客が強いられている地球の重力と、「映像」という「惑星」の重力は一致する。
惑星の住人は、自転と重力に従い、関節と関節の屈曲を司る筋肉との弛緩と弾性によって、極めて物理学的にその身体を変成させていく。やがて彼は、惑星化した映像にもっとも適応した身体となる。四肢のつなぎ目が柔らかくなり、ねじれた胴体と足は、二本の腕が生えた首とつながった。

(Interval)
「五官は互に共通しているというよりも、殆ど全く触覚に統一せられている。いわゆる第六官といわれる位置の感覚も、素より同根である。水平、垂直の感覚を、彫刻家はねそべっていても知る。大工は、さげふりと差金で柱や桁を測る。彫刻家は眼の触覚が掴む。いわゆる太刀風を知らなければ彫刻は形を成さない。」【高村光太郎『触覚の世界』】

『practice 2』
展示空間の地面に向かって鉛直方向に走る1本の線は、二つの方形画面を並べることでできたフレームのつなぎ目のようにみえる。このような画面の上を、手首だけがゆらゆらと振れ、観客がもっている「目のフレーム」を揺り動かす。
電車やバスに乗っていて、予兆なく大きく揺れた場合に倒れ込まないようにするには、踵を少しあげてつま先立ちになっておくとよい。足首がしなやかで自由な状態であれば、外からの力の変化にも弾性的に反応し受け入れることができる。「目のフレーム」が揺れたと感じたのであれば、それは「目の足首」がしなやかだったからである。しかし、柔軟体操を怠ると目も足首と同様、ねん挫してしまう。

(Interval)
前もって何らの原因もなしに、魂に慰めを与えることができるのは、ただ、われわれの主なる神のみなしうることである。なぜなら、魂に入り、出て、そのうちに霊動を起こし、その魂全体を神の愛の裡に引き入れるのは、神の固有な「活き」だからである。「原因」もなくというのは、理性と意志の行為の仲介によって、ある対象について前もって何らの感情なり認識がないことであって、それが慰めの原因となるようなことがない、という意味である。
【イグナチオ・デ・ロヨラ『霊操』第二週のための霊動辧別の規則】

『practice 3』
カメラの「フレーム」と写し込まれた「基底面」とが一つの有機体に結合することによってその結合に可能な最大の効率を上げ、それによって同時に「フレーム」と「基底面」双方の個性を発揚することができた時、物理学的に身体の形を確定―フレームアップしている、「重力-外圧」と「内圧」との均衡は揺り動かされる。映し出された身体は、フレームに隠された人体から解き放される。
分裂した「足の甲」もまた、重力を感じ、油粘土程度の弾力と粘りをもって、自らの内圧で答えはじめる。フレームという外圧と基底面という内圧によって生み出された、新たな力の均衡。

(at the end)
外から世界をあやつって その指先で
ものみなをぐるぐるともてあそぶ神などいらぬ
わが神は 内から世界を動かして
自然を御身のうちに 自然のうちに御身を宿す
だからこそその身のうちに在りて 生きてはたらくすべてのものは
神の力を 精神をいかなるときも欠くことがない
【ゲーテ『神と自然』】

(きはらすすむ 四谷アート・ステュディウム講師)