honni-i | 2001 | パフォーマンス | テレビモニタ−2台、アンプ2台、スピーカー4台、ビデオ2台、MD2台
かみにんぎょう | 2004 | パフォーマンス | マイク、MD、スピーカー2台

夢の中の所作−しょさ−

私の本棚に一冊の青いノートあって、その中にA4の紙が一枚挟まっている。
そこに書かれているのは・・・・・・。

眠っている時、夢の中で話し相手を飲み込むくらいの
大きな声で、相手を言いくるめてしまいたい事があった。

その時、その空間の中で、とてつもない大声は、
体の中心から、小さな言葉の音として発信され、
はく息にのって、人に伝わってゆく仕組みだった。

まず私は、がばっと広く、四角く、息をすった。

まだまだすえた。

こんど細く、長く、うり形に息をすってみた。
すると、スイー スイー と
自分の体の皮が伸びてゆき、内からおされるように、お腹が壁についた。

スイー スイー スイー スイー

また、べつの壁に、おしりがぺたっとついた。

巨大な、丸い空洞になった私の内には、
透明な強力な、ちからが
ムシュー ムシューとほうりこまれる。

ムック、ムック、ムック。
サワサワサワ、と髪の毛が天井をこすった。

「ほんにー(本当に)」と私は言いたかった。
体の中心から、私は「ほんにー」と発信した。

「ほんにー」は、中心から外部へむけて、
どんどん大きな音になりながら、
透明な、強力な、力の膜を破り続け、
外に向かって出ようとする。

「ほんにー」をのせて、自分の内部にある力を、吐き出そうとした。
フワー、ほんにー、フワー、ほんにー
バリ、バリと



これは詩だろうか。最初に読んだとき、私は不思議な感覚にとらわれた。そこに書かれているのは確かに言葉なのだが、読むと同時に、白くて、のっぺりとした、形ともいえないかたちが私の中に入ってくるような感覚に襲われる。自分のからだが、口、のど、おしり、背中、頭皮、器官ごとに分解し、それぞれが勝手に、いま読んでいる言葉に敏感に反応しているように感じる。
言葉を読んで理解するのではなく、言葉をそのまま、からだで吸い取っているような感じ。初めて味わう感覚だった。

私が前田さんと出会ったのは、横浜にあるBゼミという美術を学ぶための私塾に、私が講師として通っていたときで、前田さんはそこに学びに来ていた、様々な年令、経歴の人たちのなかの一人だった。それは20世紀の終わり頃で、バブルといわれた好景気もすっかりしぼんでしまい、上も下もないお祭り騒ぎの喧騒から、権威とか階級といったものに人々の関心が移ってしまっていた頃だった。年々減ってゆく受講生は、はっきりとそのことを示していた。

先の文章は私の担当していた、たった4人のゼミで、「自分だけの特別なこと、例えば誰もしたことがないような体験(夢でも、本当の事でも、怪物でも、幽霊でもよい)や、他にないだろうと思われる考え、発明など誰とも共有されていないと思うもの、そんな事物をできるだけそのインパクトを損なわずに相手に伝達する」というテーマのときに、前田さんが発表したものである。言葉でも、絵でも、立体にしても、また漫画や映像でも良かったはずである。彼女は、この文章を見せながら、私は夢のことを考えているそんな感覚をなんとか表現できないか、というようなことを話した。
そのあとどんな授業をしたのかもう私は覚えていない。

その後前田さんはパフォーマンスのような形を通して作品を発表するようになった。ヨウナと云ったのは、いつもその表現が見覚えのあるある形におさまりきらないからだ。伝えたいというエネルギーがとても強くて、洗練されることを許さない。いつも生々しい舞台になるのは、その思いの強さゆえだろう。古典的、伝統的表現を軽やかに取り入れながら、その形式に必要とされる技、知識、修練などをほとんど無視し、それでいて尊重しているフシさえある。いったいこの表現の行き着く先は何処なのだろう? この安心できないわくわく感。

芸能の命はライブである。先日久しぶりに彼女のライブをみた。今回は講談のようなものになっていた。何年か前の彼女の言葉が、かたちを変えてそこにあった。着物を着て、座って話しているくちもと、喉から出てくる声、その手振り、身振り。発せられた言葉がばらばらになって、見ている私たちの前に浮遊して、そしてからだに沁みてくる。ふと所作という言葉が浮かんできた。
もともと仏教の言葉であるらしい。身(み)、口(く)、意(い)の三業を能作というのに対して、その発動した結果としての動作、行為のことであると辞書にある。強い所作と言うものが、私の感覚を揺さぶる。

彼女には新しい表現をする人たちによく見られる、ジャンルの越境者と言った風情がまったくない。
むしろ様々な表現のジャンルが、彼女をやさしく迎え入れているように見える。私はこの表現の行くところ、何処までもついてゆきたいと思っている。今度はみちゆき道行という言葉が浮かんだ。

吉川陽一郎 2004年8月29日