2.

ここで簡単に、十九世紀末から二十世紀二十年代に至るまでの写真の技術的展開を素描したいと思います。写真が発明されたのは1839年ですが、十九世紀末に大きな転換点を迎えます。それまで写真術というのは統一された技術体系ではなかった。誰が写真が発明したかという点でもダゲールとタルボットという二人の創始者が訴訟までしていたのが象徴的ですが、その後も撮影、焼き付け、引き延ばしといった技術の改良と新技法の付加が、さまざまな人間によって行われた結果、多様な技術が競合するような状態になっていた。同時に、写真自体の使われ方も多様なものだった。総じて写真は芸術というより技術として考えられていた。測量だとか、建造物の記録、あるいはせいぜい絵画のための資料作りなどのために使われることが多かったわけです。ですから今のように「写真」というひとつのジャンルが成立していたとはいいにくい。もちろん写真を撮るという行為自体に価値があるとも考えられていなかった。何らかの社会的なニーズに奉仕するための手段だったということです。それがかわってくるのが、十九世紀の終りです。ゼラチン・プレート、セルロイドのフィルム、新しい印画紙といったものが発明され、さらに重要なことに、規格品として大量生産されるようになった。一方カメラも持ち運びができ、焦点の調整が可能でシャッターを備えたものが販売されるようになった。写真の複製が容易にできるようになったこと、その上、それらを紙に印刷して新聞や雑誌に掲載できるようになったことも重要ですね。これらの進歩の結果、職人的に伝承されてきた技術なしに、誰でも写真が撮れるようになり、その作品を発表することができるようになった。そこから芸術表現としての写真という態度が生まれてくる。だいたいこれが二十世紀のはじめです。最初それはピクトリアニズムというスタイルとなった。特徴はサロン画的な構図や題材を選び、ソフトフォーカスで柔らかな濃淡とぼやけた形態を生み出すというものです。これが1910年代ごろまでつづく。

ところでこうしたピクトリアリストは、写真に手を加えるということを何ら不自然なことだとは思っていなかった。例えば19世紀のある写真家は(1861年、C・Jabez Hughes)「もし1枚の写真を1枚のネガから創り出すことができないのならば、2枚でも10枚でも使わせてやればよい」といっています。「写真が完成した時に重要なのは、それが生み出す視覚効果」であるので、合成すればいいということですね。モデルを使ってポーズをつける、というのも同様の発想です。いわばここに欠けているのは、写真が「現実」を切り取るものである、といった信仰です。ある撮影行為が確保した映像は、それのみでは不完全なものだとみなされていたわけですね。

ロバート・キャパ「兵士の死」1936ロバート・キャパ「兵士の死」 1936 エドワード・マイブリッジ「動物の動き」1887エドワード・マイブリッジ「動物の動き」 1887

二十年代以降の写真は、そうした考え方に対する反発として登場します。写真こそ「現実」をありのままとらえる手段だというわけです。それは絵画のような他のジャンルへの参照をやめて、自律しようという試みでした。つまり写真のモダニズムです。もちろんネガに対するあからさまな操作、合成や19世紀には普通のことだった人工的な着色などは姿を消していきます。この時期、カメラは完全に持ち運び自在になり、アングルが自由になり、1000分の1秒のシャッターや一瞬の露光が可能な化学剤などが普及していく。そのことを象徴的に示すのが、戦争写真の変化です。第一次大戦というのは、ヨーロッパを覆った大規模な惨禍にも関わらず、決定的なこれ一枚というような写真を残していない。つまり写真というメディアを通して大衆的に表象されるに至っていない。それが現れるのは、例えばスペイン市民戦争におけるキャパの写真によってです。1917年から36年のあいだに、写真は死体をではなく、死の瞬間を捉えることが可能になった。写真家はカメラを持ってあらゆる場所に飛び込み、そこで生起する出来事を撮影しようとするようになった。それまでの写真が入念に準備された、人工的な環境しか撮影できなかったのに対し、「現場」に直接おもむけるようになった。そこから生まれたのは、「瞬間」性への執着といったものだったように思います。19世紀の写真は、短くても数秒、光の具合によっては数時間に及ぶ露光が必要だった。そのため撮影された写真にもある種の時間性、アウラのようなものが入り込んでしまう。もちろん被写体も撮られているということを意識せざるを得ない。写真家と被写体の間の相互交流のようなものがあったわけです。この時期に現れるスナップショットというのは違いますね。むしろカメラは一方的にある現実から特定の映像を剥ぎ取ってこようとする。周知のように1872年、エドワード・マイブリッジによって撮影された連続写真の衝撃は、これまで生理的知覚がひとかたまりのものとして捉えていた運動という連続体を、複数の異なる瞬間へときりわけたことにありました。そのとき人々は、身体なら身体がこれまで見たこともないような形態をとっていることに驚いたわけです。同様にキャパの写真のなかで、人ははじめて銃弾が身体を打ち抜く瞬間、その瞬間の身振り、表情、しぐさといったものを目撃する。それは同時に撮影が文字通り、シューティングなったのだともいえる。もちろんこれはこうした劇的な瞬間でなくとも同じです。ここに、生理的な知覚を超えた新たなリアリティがある、と。

こうした瞬間、あるいは経験的な時間性を否認する非ー時間への志向は、写真家の主体をカメラに譲り渡すという意味を持っていたと思います。写真の主体は、カメラ内部の機械的過程である。写真家はむしろその外的な要因に過ぎない。時間というのは、光が露光面に接触するその瞬間にまで切り縮められる。そこに機械による視覚性、機械が捉えた現実というものが現れる。

エドワード・ウエストン「ヌード」1936エドワード・ウエストン「ヌード」 1936 エドワード・ウエストン「ペッパー」1930エドワード・ウエストン「ペッパー」 1930 アンリ・カルティエ・ブレッソンアンリ・カルティエ・ブレッソン
「 サン=ラザール橋、パリ 」 1932 ウィージー「ロウワー・イーストサイド、夏」1937ウィージー
「ロウワー・イーストサイド、夏」 1937

だがひとつ問題がある。我々が通常リアリティと呼ぶものが、その「自然さ」、つまり経験との適合性で測られるのだとしたら、それに対して外的である、というリアルはどのように確保されるのか。そこに見られるのが、非人間的であるはずの視覚が人間の操作に依拠してしまうという問題なんですね。例えば、アメリカにf64という写真家グループがあります。これはストレートフォトグラフィという、事物をありのままに写すという考え方を確立するのに中心的な役割を果たしたグループです。このf64というのはカメラの最小の絞りのことです。彼らがやったことというのは、絞りをぎりぎりまでしぼって被写界深度をできるかぎり深くとり、隅々までピントのあったクリアな輪郭、シャープな画面を作り出す。というのは、人間の眼だと自動的に複数の深度を移行しながらぼやけも含めてものを見ているからですね。彼らはそういう手法によって、時間を伴った人間の視覚とは異なるカメラの眼というものを強調したわけです。だけどこれはきわめて人工的な操作ですね。

似たようなことはスナップショットでもあります。ブレッソンという写真家がいます。彼はフラッシュや照明も使わないんだけど、シャッターを切った後、現像やプリントで手を加えるのを嫌った。写真の本質的なものを追求していくと、生の現実を捉える瞬間だけが残る、ということですね。彼以前は、むしろ撮った後、トリミングや引き延ばしで構図を調えるのが普通だったんですが、ノートリミングでやる。では構図はどうするかというと、ファインダーのなかですでに構図が完成されていなければという。つまり、現実が完璧な構図を生み出す瞬間があり、それをとらえたとき、リアルが生まれる。それが有名な「決定的瞬間」という言葉の意味です。しかしそれは、黄金分割を多用した絵画的なものなんですね。だけど彼以降、ノートリミング、フルサイズというのがスナップのスタンダードとなりました。

しかし、こうした態度は、ある意味で当時の写真家が何を抑圧したかを良く示していると思う。つまりシャッターを押した瞬間と、最終的なプリントをつなぐものとしての現像過程です。というのは、露光の瞬間は唯一であっても、現像なり、焼き付けなり、トリミングなりにおいて、実はいくらでも異なった映像が生まれてしまう。それは別にどれかがオリジナルで他がコピーというわけではないですね。本当はひとつの露光の瞬間にひとつの映像が対応する、というのがフィクションなわけです。いうまでもなくこの時期は、ベンヤミンが着目したように、写真の複製が容易になり、さらにそれが新聞や雑誌に印刷されて大量に社会に流通していく時代です。つまり、写真がその「複製技術」としての性格をあらわにするのと、モダニストたちが、ジャンルの自律性、また写真作品の単独性、というものを成立させようとする流れとが交錯している。

ラーズロー・モホリ=ナギ 「フォトグラムNo1.鏡」1928 ラーズロー・モホリ=ナギ
「フォトグラムNo1.鏡」 1928

カメラが捉えたもののリアルをどうやって保証するか。この問題に、直接写真というものの物質性に依拠してしまえばいいと考えたのが、モホリ=ナギだと思います。彼はカメラさえ取り払って、光が印画紙にぶつかって化学的変化を起こす、その過程そのものを剥き出しにしてしまった。それがフォトグラムと呼ばれるものです。こうなると写真が何かを「写す」とさえいえない。被写体がないわけです。印画紙上に刻まれた物質的痕跡しかない。

いずれにせよ、写真がとらえるリアルというものを具体的に表現しようとすると、それはバラバラで人工的な技法に分岐していってしまう。あるいはカメラによって初めて開示されるはずだった「現実」が、写真家によって先取り的に操作されている。それが20年代半ばから30年代にかけてですから、ちょうどアヴァンギャルドがもっとも多産だった時期からワンテンポ遅れている。だからいわば周回遅れの写真には、すでに多様な視覚的様式というものが目の前にあった。この時期は写真史上でももっともさまざまな形式的実験が繰り広げられた時期とされているのですが、それは利用可能なスタイルがすでにあったという事情があると思います。さらに写真の技法というのは、絵画の場合のように画家個人に身体化されているわけではないですから、一人の写真家が次々様式を変遷させていくということもおきる。本来人間を排除して、機械固有の視覚性というものを確立しようとする試みが、人工的な様式に分解していってしまう、というのがこの時期の矛盾だと思います。

とはいえ、写真が他のジャンルの様式から一方的に影響を受けた、というのもちょっと単純すぎるとは思うんですね。いうまでもなく、19世紀から絵画も写真の登場にインパクトを受けてきた。未来派などその衝撃から生まれたとさえいえる。しかし今ふりかえるとおもしろいのは、写真というジャンルが、様々な様式のあいだの隙間というか、それらが浸透しあう場所になっていたように思われるところです。それは当時の多様な様式に写真的な視覚が浸透している、ということでもある。極端にいえば、写真的視覚こそが基底平面になって、その上で様々な様式が成立していたような気さえする。

カール・ブロースフェルト「インディアンブロッサム」1930カール・ブロースフェルト
「インディアンブロッサム」 1930 カール・ブロースフェルト「インディアンブロッサム」1930カール・ブロースフェルト
「インディアンブロッサム」 1930 カール・ブロースフェルト「かぼちゃの巻きひげ」1930カール・ブロースフェルト
「かぼちゃの巻きひげ」 1930 エドワード・ウエストン「大麦ふるい機の表面」1932エドワード・ウエストン
「大麦ふるい機の表面」 1932 マーガレット・バーク=ホワイト「フォートペックダム」1936マーガレット・バーク=ホワイト
「フォートペックダム」 1936 アウグスト・ザンダー「農場主の若者」1912-3アウグスト・ザンダー
「農場主の若者」 1912-3 アウグスト・ザンダー「菓子職人」1928アウグスト・ザンダー
「菓子職人」 1928 ルイス・ハイン「ガールワーカー」1908ルイス・ハイン「ガールワーカー」 1908

この時期の傾向のひとつとして、ブツ、物質にこだわった写真というのがあります。ノイエザッハリヒカイトと呼ばれたりもするものですが。これは文字通りに、ベタに、物質の現前性、写真のインデックス性に依拠して、リアリティを確保しようとしたのだといえる。そこでは、人間、特に顔や身振りは排除される傾向があります。例えばブロースフェルト。ブレッソンは現実の光景に絵画的な構図を見いだすわけですが、彼も自然の事物に幾何学的な造形性を発見する。人間の眼では気づかない、自然の視覚的秩序を見いだす、そこにリアルの手触りが生まれる、ということです。

この方法論は機械や建造物といった人工物にも拡張されます。というか、人口と自然といった対立自体が社会的な意味分節として無化される。どちらもともに物質であり、非人間的な秩序に属してるというわけです。人体も物も同じように見えてくる。こうした写真で多用されるのが極端なクローズアップですね。それによって事物が空間から引き剥がされ、人間的な意味連関・道具連関から解放されるからです。単なる物質、単なる形態が可能になる。もうひとつ特徴として挙げられるのは、画面に単一の事物しか写っていない、そしてその事物も部分に分割できない、というかしづらいようになっている。複数の事物や、部分が存在してしまうと、そのあいだに関係が生まれ、意味が生まれてしまうからです。僕はここで、そうしたコンテクストを生成する主観の能力の抑制が図られているのではないかと思います。

総じていうと、この時期写真は、人間の視覚、さらに人間的主体性というものを解体しようとした。より広い視覚の領野があり、経験的視覚はその一部に過ぎないのだ、と考えようとした。しかしながらそれは機械の眼、というものをブラックボックス化することであって、実際にそれを「見られるもの」として実現しようとする限り、何らかの表象の形式のうちに着地させなければならない、というパラッドクスがあったように思います。それは逆に言えば、人間の視覚が、さらに社会的意味作用がいかに柔軟で包摂的なものであったかということですね。このことをむしろ自覚的に利用することで、報道写真というスタイルが興隆していったのが、30年代写真の展開であり、同時に写真の自律性という短い夢が潰えていく過程であったのですが、時間がないのでここでは触れません。

それから、この時代、いささか毛色の変わった写真家だったザンダーという人について触れます。ザンダーの写真はある意味オーソドックスです。彼が試みたのは、写真によってワイマール社会の全体的パノラマをつくることでした。つまり人々は、「農民」「職人」「芸術家」といった七つの大類型に分類され、さらにそのなかで細分化されていくという構想になっていたからです。「農民すなわち大地に結びついた人々から始まって、ついには最高の文明の代表者に到る、あるいは下降して白痴に至る、あらゆる種類の階層とあらゆる種類の職業をめぐる旅」。もちろんそれ以前の肖像写真も、被写体の社会的地位、身分を表すものではありました。しかしザンダーはそれらの諸身分が全体で体系を構成しており,個人はその示差的な項として表現できると考えていたように思われます。デーブリンという作家は比較解剖学、などという比喩を使っている。ですから一枚一枚というより、その全体によって意味がある。一般に写真の魅力としてしばしば語られるのは、写真がインデックスであるがゆえに可能になる、被写体の歴史性、一回性のようなものですね。例えばこのルイス・ハインの写真。これはもともと当時の児童労働の苛酷さを告発する、という意味を持っていたのですが、そうしたメッセージを超えて、われわれはこの少女が過去に存在した、というその事実に感動する。身振りや表情をというものを通して、特定の瞬間、特定の個人の存在が焼き付けられるわけです。一方ザンダーはどうかというと、彼もまた確かに身振りや表情といったものに敏感だった人だと思います。ただしそれだけではなく、コスチュームや小道具、その「らしさ」というものと、個人の固有性の関係に注意を払ったのではないか。彼は背景を吟味し、被写体にもっともふさわしいポーズや表情といったものを探し求めたとされています。菓子職人ならもっとも菓子職人らしく見えるにはどうしたらいいのか、という。さらに、われわれはザンダーを見ながら、この菓子職人が菓子職人にしか見えない、いわば類のなかにある個ではなくて、類そのものと化してしまった個といった印象を抱くわけですが、実はそう感じることができるのは表題のせいですね。彼の作品にはそうしたつねにそうした「農場主の若者」だとか「石工の親方」といった即物的な表題がついている。とすると彼は、写真というものを個人の固有性の記録と、コスチュームやポーズで示される「らしさ」、いわば社会的なイメージですね、そして言葉、この三項のシステムとして捉えていたのではないか。この三つをいわばはみ出る部分なしに重ねあわせることですね。そしてザンダーをこの時代のなかで独特の作家としているのは、この三項が区別できないようなものとして円滑に循環したとき、そこにリアリティが現れる、という発想だった。事実性も、共同主観性も、ともに表象のシステムの一部として組み込んでしまう。だからこれまで述べてきた写真家たちとはむしろ逆の戦略ですね。彼らは共同主観性の外部に出ようとした。表象のシステム内部で完結してしまえば、その外部に出る必要がなければ、それはすでに「現実」である。「現実」というのは単にその外部がないもののことである、そういう信念だったのではないかと思います。

アレクサンドル・ロトチェンコ「母」1924アレクサンドル・ロトチェンコ「母」 1924 アレクサンドル・ロトチェンコ「先駆者」1928アレクサンドル・ロトチェンコ
「先駆者」1928

さて、いささかまとめめいたことをいうと、この時代の写真というのは、他に類例がないほど多様なスタイルに分岐している。しかしもしそこに共通するものを探すとしたら、それは、例えば主観の数だけ世界があるといったニーチェでもいいし、あるいはフラヌールが、都市を遊歩するなかで、幾つもの切れ切れの映像がショック体験として降り注いでくる、といったベンヤミンでもいいけど、断片化した経験、という近代の感覚ではないでしょうか。ロトチェンコという人がいます。ロシア・アヴァンギャルドの一員としてデザインなどでも大きな業績を残しましたが、彼は、これからは十九世紀的な肖像写真ではなく、被写体を様々なアングルから様々な仕方でとらなければならないという。それによって、ブルジョア的な内面と外面、プライウ゛ェートとパブリックといった対立を超えて、全体としての人間が捉えられるはずだというわけです。彼は確かに革命家でもあるので、来るべき共産社会のユートピアのように、全体的人間という無限遠点を仮構する。けれど、実際に産出されるのはどこまでいっても切れ切れでバラバラの映像でしかない。しかし、ロトチェンコに限らず、写真が断片でしかないというのは当時の前衛写真家たちに共有されていた感覚ではないか? だから、決して全体を代表できない断片が断片のまま、いかに自律性と強度を獲得できるか。これがリアリティの問題だったのではないかと思います。

アスペクト図像アスペクト図像

この時代というのは、リアルというものの更新、再定義が試みられた時代だった。そのことを考えるとき、僕がふと思い出すのはウィトゲンシュタインのいうアスペクト知覚という考えなんですね。それは例えばこのような絵です。この絵でおもしろいのは、我々が見ているこの絵自体は何も変わっていないということです。ただ「見え方」がかわるだけ。当時の前衛写真のことを、英語圏ではニューヴィジョンと呼んだりするのですが、しばしば我々は、彼らが求めた新たな視覚性というのを、斬新で、奇異な、異化されたイメージを生み出そうとしたのだと考えてしまう。誰も見たことのないようなイメージ。だが本当は違うのではないか。写真というのはコップを写したら、それがどう見えようともコップでしかない。写っているモノはかわらない。どう写したってコップという事実性は残る。すると写真家たちが求めたのはむしろアスペクト変換であり、リアルというのは変換可能性のことだったのではないかと思うのです。そしてウィトゲンシュタインによれば、アスペクト変換が起こるというのは、そのものに対する人間のふるまいが変わることであり、〈私〉という言語ゲームが変わることである、ということなのです。

現在というのは、絵画や小説のような芸術であれ、政治や社会の領域であれ、実感に基づくような卑近なリアリズム、リアル・ポリティックスなどと呼ばれたりもする現実主義が徐々に蔓延していっている時代ではないかと思います。そこで、当時発明された技法がそのまま使えるわけではまったくないけれど、日常的な経験世界とは異なる領域にリアルを確保せよ、という命令が生きられた時代として、戦間期を捉えるとき、その時代について思考することは無意味ではないのではないか、と思います。

以上で終りです。ご清聴ありがとうございました。

previous