エクササイズから作品へ

石岡良治

イエズス会の創始者イグナチオ・デ・ロヨラは、その著書『霊操』[*1]において、修行者に対する実践的プログラムを提示している。日本にキリスト教をもたらしたフランシスコ・ザビエルなど、行動的な布教で知られるイエズス会は、対抗宗教改革を代表する存在である。神の観想を強調していた従来のカトリック諸会派とは異なり、ときに戦闘的な姿勢をも見せるその布教の基礎となる方法が、このプログラムには含まれている。霊操(exercicios spirituales)すなわち精神のエクササイズは、体操(exercicios corporales)すなわち身体のエクササイズとの類比によって名付けられた。五官すべてを駆使することによって、実践者がイエスの事跡を生き生きとたどり直し、「大いなる勇猛心(grande animo)」をもって信仰を深めることを目指している。ところで、その対象が身体であれ精神であれ、エクササイズが目指すのは、実践者が「よき習慣」を打ち立てることであった。ここで芸術におけるエクササイズについて考えてみよう。芸術のエクササイズにとって、「よき習慣」とはどのようなものだろうか。芸術のエクササイズは、実践を通じて作家が確立する習慣(エートス)と、制作行為によって獲得された技術(テクネー)に基づいた作品という、二つの側面に関わっている。霊操というモデルそのものは、あくまでもカトリック信徒の「精神」に働きかけるものであるがゆえに、これを芸術のエクササイズになぞらえれば、もっぱら作家が確立すべき習慣に向けられているようにみえるだろう。

ところがロラン・バルトが『霊操』という書物のうちに見いだしていたのは、送り手から受け手へと次々に伝達されていき、最終的に神との対話に至るような、四つの「テクスト」機能とその読解過程であった[*2]。すなわち、1ロヨラから教導師へ、2教導師から修行者へ、3修行者から神性へと、信仰のメッセージが伝達されていく過程は、最後に、4神性から修行者へと与えられる「神秘的」な回答によって完成する、一つの体系をなしている。ここで注目すべきなのは、テクストとテクストの間で次々と進行する、読解の操作そのものである。このテクストは、それ自体が複数の読解の操作(オペレーション)からなることによってはじめて機能することになるのだ。バルトは『霊操』をテクスト読解のオペレーションという観点から把握することによって、この書物の価値をイエズス会の信仰そのものとは別の形で考察することを可能にしている。ここでは個々の修行者がテクストを生産する行為が、まさにエクササイズとみなされている。『霊操』という書物は、修行者それぞれが神との対話によって自ら書かなければならない、信仰のテクストの同一性を保証する役割を担うのである。霊操において、実践と制作は一致する。それゆえ、霊操の実践を導く技術はその制作行為と統一されるのでなければならないだろう。

バルトの『霊操』読解を通じて見いだされた、エクササイズにおける実践と制作の一致というモデルは、芸術を考える上で示唆的である。だがそこには大きな違いがあることもまた指摘されなければならない。なぜなら芸術において強調されるべきなのは、霊操のプログラムで提示されているような、作家が制作行為を「よき習慣」として身につけるエクササイズ(訓練)にはとどまらないからだ。むしろ『霊操』というテクスト自体がそうであるように、作品が行う具体的なオペレーションを通じて、獲得された技術がエクササイズ(行使)されることこそが重要である。エクササイズは、エートスの訓練であると同時にテクネーの行使でもある。こうして作品のエクササイズに固有の課題が生じるだろう。キリスト教という特定の信仰のプログラムを明確に有しているがゆえに、自身のテクスト性を必ずしも明示する必要がない『霊操』とは異なり、芸術のエクササイズでは、作品のオペレーションそれ自体もまた取り出しうるのでなければならない。神との対話が「神秘」に至り、異端から区別される義しき信仰の同一性を得るためには、『霊操』という作品のフレームそのものを提示することは、ときに妨げになってしまう。だが芸術作品において、鑑賞者に与えられるメッセージの同一性はあらかじめ保証されていない。それどころか、作品を成立させる複数のオペレーション同士が、何らかの一致をみるということさえも、決して自明ではない。作品のフレームをなすそれらはすべて、エクササイズによってそのつど見いだされるものであり、特定のプログラムによって統御されるものではないからだ。

訓練および行使という形で一般化されたエクササイズは、芸術の実践と技術にとってまさに本質的な意義を有している。しかし作品を成立させる区切りをどこに与えればよいのか、という判断が、エクササイズから自動的に出てくるわけではない。むしろ訓練と行使という二側面をもつエクササイズは、そこで様々なオペレーションが展開される経験の場である。そして作品は経験の場を設定した上で、さらにそこに区切りを入れなければならないのだ。こうして芸術作品では、エクササイズのプロセスそのものが露呈する。エクササイズというこの経験の場の極限では、霊操と体操の区別がもはや成り立たなくなり、身体と精神という分割そのものを可能にしているようなマテリアルが見いだされることになるだろう。作品のマテリアルを媒介にすることで、作家だけでなく鑑賞者もまた、各々の実践と技術を訓練し、行使するのだ。「信仰」とは異なり、作品による身体と精神のエクササイズは、もはや「よき習慣」が機能しない場面で判断するための準備である。それゆえ、諸事物に新たな結合を与えなければならない。この命法が、エクササイズを作品にもたらすために必要な「信念」の基礎をなすのである。

*1 イグナチオ・デ・ロヨラ『霊操』(岩波文庫)

*2 ロラン・バルト『サド・フーリエ・ロヨラ』(みすず書房)pp.53-104

(いしおかよしはる 四谷アート・ステュディウム講師)