たとえばこんな定言がある。

○芸術とは認識の術である。
あるいは
○芸術とは対象である以前に技術として存在しなければならない。

一見、自明に感じられる以上の定言は、
しかし、芸術作品に当然、与えられていると考えられているステータス(近代主義的な)___すなわち芸術作品は先行するいかなる機能にも意味にも帰属しないことにおいて客体としての自立を獲得する___にあきらかに違反する。もちろん、このようなステータスは容易に獲得されるようなものではない。あらかじめ容易に獲得されるとすれば、芸術は自らを何の役にも立たぬゴミに還元することになる。何の役にも立たぬゴミ とは端的にいかなる関係づけをも放棄すること。道具であることからの脱落だけを意味している。

ゴミを認識する必要はない、むしろ「認識するな」、「無視しろ」、という命令がゴミをゴミとするのである。したがって誰もが知っているように、この人為的な命令の中でしか、ゴミなど存在しないのである。同じように「芸術については語ることができない」「芸術作品を無視しろ」という命令によってしか、芸術が客体として自立できないのだとすれば、なんという倒錯、寂しさだろう。

ゆえに、芸術は技術である とわれわれは改めて宣言しなければならない。ゴミであれ強制された認識によってはじめて成立するのであれば、われわれはむしろ、それに抵抗する術を修得しなければならない。

Spiritual Exercise。Exerciseとは体操である。ゆえに直訳すれば精神の鍛練となる(イグナチオ・デ・ロヨラによる同名の書はよく知られている)。筋肉と同じように、われわれの脳髄は鍛練できる。芸術は鍛練のためのツールであり、マシンである。すでに、われわれの身体が既存の装置、システムによって矯正され、束縛されているゆえに、われわれはそこから逃れるためのツールの創出と、エクササイスを必要とする。たぶん、このようなタイトルをあえて選びとった、この展覧会の出品者たちが狙っているのは、じつに『芸術』と呼ばれてきた膠着した機構(膠着した機構とは、身体と機構の癒着、すなわちフェティシズムのことである)からの脱出であり、突破であるはずだ。『この他に何が欲しいか?』と問われれば、それでも彼らはこう答える。『もっと多くの芸術を!』つまり、もっと多くの手段を、技術を!

岡崎乾二郎(近畿大学国際人文科学研究所教授)