Review 器山

たとえば周囲をほとんど真っ暗な闇に囲まれているとき、人は自分の輪郭すらもが疑わしくなる経験をするだろう。《器山(うつわやま)》の登場人物、倫子がはじめ位置するのは、そんな状況である。そのような状況で頼りとなるのは、わずかに目に見えるものや、あるいは自分が発する声や、周囲を探る触覚といった、部分的な情報しかない。われわれはまさにそのような状況から、すなわち前田真里の語りという限られた情報から、闇を歩く倫子を想像し、形作ることとなる。そしてわれわれが《器山》の世界を形成しうるのは、耳や目といった感覚に全神経を集中し、それらの感覚をいわば拡大させることによってだとすれば、この話の中で、器山と器谷の境にある芝居小屋で出会う倫子と小夜さんの二人が、片目がくっついたり、口がくっついている人物であることは偶然ではない。彼女たちは感覚器官のひとつがくっついて開かない状態であるという意味で、われわれが強いられる知覚の条件との対照をなしている。

ところで、この話は、作者ひとりによって語られる。能を例に出すまでもなく、この独演の語りの形式は、登場人物の人称の入れ替わりを容易なものとする。ナレーションや登場人物たちの類似した語尾の反復は、われわれが語り手の上に想像する人称のスイッチを手助けするだろう。ただし、人称の入れ替わりは容易となるが、その際、いわばワンフレームに存在できる人物は一人物となるというルールが課せられる。
倫子が小夜さんの顔を触る場面。この場面において、それまで話の進行の中で前提となっていた、ワンフレームに一人物という単位の、二つのフレーム同士がはじめて同時に重なり合うことになる。本来、二人の人物をひとりの人物が同時に演じることは難しい。ひとりの人物という、ある全体を、ひとつの単位として保持している限りにおいて、それは困難となる。それが可能となるのは、いったんクロースアップされた身体の部分それぞれが、ひとつの全体として見なされるときである。倫子が右手で小夜さんの顔を触るその動作は、たしかに作者ひとりによって演じられる。だが、それが明らかに二人の人物の動作に見えるのだとすれば、それは、触ることによって相手の様態を確かめることが、同時に相手に触られることによって自分の領域(輪郭)を確かめることにもなるという、ほとんど触覚に特化された(部分化された)倫子と小夜さんに同時に訪れる感覚が、作者の上に二重化する瞬間だからである。[M.I./S.T.]


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