Review かみにんぎょう

二つ以上の異なった、あるいは、本来は互いに無関係な空間と時間を結びつけること。作品の上演における命題として具体的に言い換えるなら、それは観者のいる時空間と、それとは別の出来事や物語という時空間とを結びつけることである。独演朗読形式のパフォーマンスである《かみにんぎょう》において、この二つの時空間を唯一結びつける媒介となるのは、話者の言葉、音声である。けれどもその音声は単一ではない。交互に入れ替わり進行していくライブと録音の音声が、冒頭ではそれぞれ、ナレーションにあたる地の文と、登場人物の会話とに割り振られている。しかし物語が進むにつれ、その音声と語りの内容の安定した対応関係は徐々に逸脱しはじめる。そして音声の種類は、意味内容からも、視聴覚的な情報においても、容易には判別しがたくなっていく。つまり、このような決して単一なものではない音声の多用によって疑問に付されているのは、観者と物語の媒介としての語りの自明性である。

たとえば、ある二人の人物が「鳥人形大会」という奇妙な催しについて会話をしている最中に、唐突に別の会話が差し挟まれる。ときにスイッチングされるそれまでの朗読と録音の音声とは位相の異なる場所、すなわち、話者の口からではない別の方向から発せられる声。その声が、娘の名を呼ぶ母親のものであると判明するとき、同時並行的に進行する先の会話が、まるごと全て、主要登場人物のひとりであるてんちゃんのものであることが示唆される。

ここで重要なのは、この別の方向から発せられた声に話者の側が応答するとき、それは今までとは異なった生々しさを持って響き、われわれにある移動の感覚を強いるという点である。われわれはこれまで、録音された音声との相対性において、話者の声を「ライブ」と規定してきた。しかし、今発せられたその声は、このような「ライブ」と同種のものなのだろうか? いや、そうではない。なぜならそれは、「てんちゃんがお母さんに話している、という状況を話している話者の声」という登場人物の関係によって規定された発話でありながら、聞こえてきた声に応えるもうひとつの声として、端的にひとつの反応として存在しているからだ。その意味で、その声はプログラムに従った演技でありながら、今起こった出来事に対する受動性を持ち、観者は話者から語られる物語の空間に属する声が、同時に音声に反応する声であるがゆえに喚起する、別のレベルの空間に立ち会うことになる。その作用こそが、この会話が観者に強いる移動の感覚であった。そのとき、いわば物語の空間は立体的に切り開かれ、まるでわれわれがその内部にいるかのような感覚が呼び起こされることになる。

二つ以上の異なった、あるいは、本来は互いに無関係な空間と時間を結びつけるという命題は、物語内容においても決して一義的なヒエラルキーに定位できない関係として反復されている(* 註)。起点となったエピソードは、その構造が保存されたかたちで別のエピソードに展開される。というよりもむしろ、リニアな因果律に従って進行しているかにみえるこの物語は、実のところ比喩的な連鎖とその並置の蓄積によってのみ繋がっていたのである。[S.T./M.I.]


* 註--物語のあらすじは「もこちゃんの悩みをてんちゃんが代行して解決する」という一言で要約しえるかにみえるが、二人が同時に登場するシーンは前半に少し出てくるのみで、ほとんど直接には出会うことがない。二人は分身的というよりも並列的な関係として描かれている。そもそも、何にでも感情移入ができて、自分の身体をも衣服のように脱ぐことのできる(幽体離脱?)てんちゃんが、自分が熱中してつくった紙人形に結局のところ同一化できない、というもこちゃんの悩みを共有していたのかどうかすら、定かではない。


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