Kenjiro Okazaki recent paintings
 現在も継続中の岡崎の絵画シリーズは1992年に始まっている。画面上をランダムに舞う色彩は、綿あるいは麻のロウキャンバス上にたまたま一時的に静止し、付着しているかのように見える。だが粘りを持った琥珀状の透明な量塊、不透明でマットな質感、そして実際には透明なアクリルで被覆されている下地など、色彩が持つ多様な質感は全て、アクリルメディウムの特性を調整することによって作られている。
  その偶発的な見かけは、画面上の筆触が示す複雑さや複合的なありかたにも由来している。筆触群の示す動勢は決して一様ではない。水平に置いたキャンバスへのたらし込み、刷毛やナイフによって押しつけられたエッジ、型によってくり抜かれたシェイプ。唐突に方向やスケールを変える複数の筆触群は、こうして互いに牽制し合うようにして画面に併存する。それゆえ画面は単一な身振りや物理的な力に還元されず、いわゆるモダニズムのオールオーバーな単調さからはかけ離れている。けれどもそれらは決して無秩序ではないのであって、しばらく眺めていると、数学的ともいえる厳密な呼応関係が筆触の間に張り巡らされていることに気づかされる。
  偶発性と必然性の交錯。ここで参照すべきなのは抽象表現主義ではなく、むしろセザンヌやフォーヴィズムとの関連である。セザンヌの絵画にしばしば見られる、色彩や筆触やスケールの唐突な変調は、表現されるべき対象から課される規則を示している。外部に想定されたモデルからの要請ないし干渉の効果が、画面上の唐突な変調として現れる。つまり対象こそが視線を誘導して、相互に分断された多様な現われを一つに貫くことを強いるのであり、ここで対象は、画面の複雑な組織化を可能にする一種の統整原理として働いていたのである。
  岡崎の作品に再現すべき対象があるわけではない。いわゆる具象絵画ではないのであって、フォーヴィズムの絵画において色彩が果たしていた機能が、音楽や建築や言語が持つような構造として再構築されている。もしセザンヌにおいて対象が、実際には筆触や色彩の転調によってこそ産出されていたのだとするならば、それは音楽や言語表現がもつ構造の特徴でもあった。岡崎の画面に見出されるのは様々な「対位法」なのである。輪郭だけでなく厚みや動勢までもが転写された同一の筆触、あるいは色彩が変調され、スケールが変えられ、上下反転された筆触が、一枚ないしは二枚の画面上で自在に行き来し、繰り返される。
  筆触はここで、一つの固定した画面上に位置づけられるのではない。筆触が示す色彩は、その都度一つの仮想上の面を暗示するが、他の色彩と連合することで直ちに異なる平面を生起させる。たとえば左画面にある筆触がときに右場面にあるかのように感じられる。こうして順次視線をめぐらせることによって、まさに多声的に複数の仮想上の平面が次々と生起し、切り替わっていく。盛り上がり、あるいは押しつけられた物質感のみなぎる色彩。しかし、ここで生起する可能な無数の平面群において、徹底的に欠如しているのは、むしろ物理的な存在としての平面であると言えるだろう。ときにそこに生起しているのは、まさに視覚によって生成される出来事であり、出来事の連鎖としてのシークエンスである。
  岡崎の絵画作品には、しばしば絵画面に拮抗するほどの複雑性を帯びた、異様に長いセンテンスのタイトルが付けられている。たとえば二枚組作品のタイトルは、同じ長さの二つのセンテンスに対応させられ、同じ語句やセンテンスが、言い回し、ジェンダー、時制等を転調させつつ繰り返される。こうして指示機能が弱められた語句は連鎖して、物語性すら持つセンテンスを形成し、積み重なった空間的秩序が意識される。単一名詞によるタイトルや無題は、しばしば画面を一つの表象に収斂させる傾向を持つが、岡崎のセンテンスによるタイトルは、絵画と言語という二つの表象系列をいったん切り離す。だが画面とタイトルという相異なるパラディグムは不意に遭遇する。この出会いはまさにタイトルの複雑な構造によって可能になるのであり、画面及びタイトルに生起する出来事を名指しているのである。

石岡良治(表象文化論) / 四谷アートステュディウム講師
セゾン現代美術館「ART TODAY 2002 岡崎乾二郎展」カタログより再録


『Kenjiro Okazaki recent paintings』