橋本聡 another展 ─ 別の経験の可能性

ギャラリーを訪れる者は、単なる「観者」にとどまらず、作品に能動的に参与する「来場者」になることが要請される。作品の視覚的要素にアクセスするためには、まず会場内に入ろうと試みなければならないからだ。だがドアは直ちには開かず、そこに重さが感じられる。会場内が見える丸い穴の空いた、木製のドアを開けようと試みていると、しばらくの間抵抗をみせたあとで、ゆっくりと開いていく。だが、慣性をもつその動きは相変わらず重い。

会場は白塗りのがらんどうの室内。だがこの空白は、しばしば「ホワイト・キューブ」と呼ばれる中立的な展示空間とはまったく異なる印象を引き起こす。おそらくそうした印象は、横倒しにされたブラウン管のモニターが室内に設置してあることによるものだ。一見すると無造作なその外観が、かえって白い室内に置かれているこの物体の「気配」を強調しているのである。そこでは、六分割された静止画像が、数秒ごとにたえず変化を続けており、来場者は、見るべきものがまさにそこにあることに気付く。さらに、背後のドアがゆっくりと閉じていたことにも気付くだろう。

モニター上では、数々の名画から取り出された断片群が次々と連鎖し続けている。そのイメージ展開はときに驚くべきものだ。バスキアやウォーホルの断片が、プールや海のイメージと連合する。また、書字を用いたイメージによって画面がおおいつくされようとする刹那、速やかにモネの水面が現れる。こうして文字が書かれる「面」と光の反映「面」が、共に絵画が扱うべき「画面」であるという事実に改めて気付かされる。さらにモニターを眺めていると、ゴヤの怪物、ダ・ヴィンチの人物等々、様々な身体像に由来する手足や胴体が、クールベの洞窟などと組み合わされ、全く別の像が造り上げられては壊されていく。もちろん複数のイメージ間の照応関係は、形態だけにはとどまらない。マティスの「この青」と「あの赤」が、ジャスパー・ジョーンズのターゲット等々と形作る、色彩の照応関係もまた強い印象を残す。その他様々なイメージ運動の展開を、来場者は目の当たりにする。おそらく形態のみならず、色相や色価の入念な調整によって、こうしたイメージ形成が可能になっているのであろう。

だが展開されるイメージの連鎖は、たんなる観念連合にはとどまらない。インスタレーション作品にしばしば見られるような、記憶への安易な働きかけがないからだ。断片的なイメージ群の並置は、たいていの場合、どれだけルーズなつながりであろうとも、観者の各々の記憶によって任意に秩序付けられ、しばしば作家の無意識を表出するものとされてしまう。しかしここではイメージ群が、作家および来場者の存在から自律した、数々の系列からなる一定のまとまりをしばらくの間保った後で、全く別の関係へと引き渡されていく。さきに評者が試みたように、もちろん来場者はこの事実を記憶上で確認しなければならない。だが、クレーの色面、マティスの青、フェルメールの少女等々、画像のまとまりにはつねに、形態や色彩などの様々な照応関係に基づいた制御が加えられている。さらに、けっして恣意的ではない対応の厳密さは、真の意味でVJと呼ぶのにふさわしい「つなぎ」の技術をうかがわせる。ところどころの「つなぎ」が容易なものにとどまるきらいがあるものの、観者による恣意的な観念連合を突破して、来場者を自律したイメージの連鎖に立ち会わせていく志向が確かに感知されるのである。

循環し続けるイメージの連鎖を確認したあと、再び室内を見回すと、白塗りの空間が「別様に」見えてくる。来場者は、採光、空調などの会場の設備とともに、横倒しにされたモニターもまた、絶妙に配置されているという事実にあらためて気付かされる。すでに述べたように、もちろんこの作品は見られるべきものだが、来場者がただちに「観者」だというわけではない。なぜなら、この視覚的作品では、展示空間の配置そのものも、作品を織りなす不可欠の構成要素になっているからである。自律するイメージが繰り広げられるモニターを、横倒しにされた対象として投げ出すことで、視覚にのみ基づくことのないような、来場者による空間の経験が強調されている。

タイトルの"another"は、作品のあり方そのものを名指している。このことは、まさに室内から外に出ようとするときに明らかになるだろう。入る時以上にドアの「抵抗」が強く感じられるからである。この時、来場者は、そこに閉じこめられたかのような錯覚に陥る。だが仕組みは入場時と同様である。居心地の悪い時間を過ごしつつ、何度か試みた後、鈍い動きと共にドアが開き、再び会場から外に出ることができるだろう。最終的にはこのドアの存在が、白い室内や、モニター内のイメージを含めて、この作品を展示空間共々「別の」時空間として枠付けている。ドアの丸い穴が、外からモニターの位置を指定しているのである。こうして対象としてのモニターと丸い穴は、互いに規定しあい、室内に感じられる「気配」をあらかじめ計測している。そして作家自身によってコントロールされていることが判明する、このドアこそが、作品を成立させる蝶番の役割を果たしているのだ。モニターを見ること、室内空間を知覚することなど、来場者が行うことはすべて、ドアを通ることによって与えられた「別のanother」経験の可能性なのだ。

石岡良治(表象文化論) / 四谷アートステュディウム講師
Daily Commentary JOURNAL SITE より再録

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