イマヌエル・カントは、徹底した規則正しい生活を送ったことでよく知られている。毎朝五時五分前に起床し、五時に飲むべく定められたお茶の準備をする。昼は十三時十五分前に使用人に食事の準備を命じ、十三時ちょうどに「さあ、皆さん」という言葉を発し、昼食が始まる。そして昼食会には自分を含めて必ず三人から九人の客人を招き、そのあと一人で散歩をするという毎日を送っていたのである。カントのこうした生活を支えていたのは、健康を保つことに対する彼の執拗かつ体系的な関心だった。とりわけ血液の循環を円滑に保つために払われた配慮などは限度を越えており、奇妙な「靴下止め」のような発明すらもたらした。
しかしこうした逸話を哲学者の単なる奇癖とだけみなすことはできない。彼は論考「思考の方向を定める(orientieren)とはどういうことか」において、空間の方角を決定することができるのは、実は太陽や月や地球のような外的な対象の運動によるのではなく、その運動を運動として認知するのさえ、実のところ、われわれの「右手と左手を区別しうる感情」によるのだという。空間の方位はわれわれの正しい感情にこそ由来するのだ。(天体の巡行よりも血液の循環こそが優先する)。
空間の客観的区別は、最終的には主観的根拠に基づく。この生活におけるカントのコペルニクス的転回は、彼の規則正しい生活時間にもあてはまる。彼の行動は時計によって決定されていたのではない。反対に時計こそが彼の生活の正しさを基準としていたのだ(事実、ケーニヒスブルク市民にとって、毎日規則正しく散歩するカントが時計の役割を果たした)。
「いま、ここ」はいったい「いつ、どこ」なのか、それを判断するのはカントの生活を律する格率であった。「思考一般において方向を定めるとは、理性の客観的原理が及ばない場合に、理性の主観的原理に従う信憑において規定されること」である。つまり彼の批判哲学を支えていたのは、ほとんど認識衝動といってよい、思考のオリエンテーションとしての判断だったのである。