2013年第6回マエストロ・グワント 審査総評

蔵屋美香|東京国立近代美術館美術課長

審査に初参加し、二つのことを考えました。一つ目は展示ということ。二つ目は、審査する私たちは今、どのように「すぐれた作品」を識別できるのかということです。まず展示について。この賞は募集時に「個展ができます」とうたっており、審査も展示の形で行われます。であれば、応募に当たって何らかのやり方で展示という問題が批判的に考えられるべきではないでしょうか。しかしいくつかの作品は、どこかで見たような額や台座を付し、展示にまつわるパレルゴンの部分で思考が急に無造作になっていました。次に「すぐれた作品」の識別について。では展示の場で作品に面した私たちは、何をもってその善し悪しを判断するのか。私は今のところ次のような点を列挙するしかありません。すなわち、無意味な手仕事の巧みさではなく、しかし単に意識がまわらないための不器用な仕上がりではない、その間のどこか。その「どこか」を支えるべくコンセプトに要請される精緻さ、複雑さ。造形物とこのコンセプトとが一体となって日常のルールにコミットしながら、それを別のものにすり変えて行く感覚。受賞した高木生さんには、ネット上の音楽、紙媒体など複数の場を横断することで、自覚的に展示の問題をすり抜けようとする意志を感じました。また、もはやフォルマリスム分析やメディウム・スペシフィティでは測れないこれら複数の場の間の関係性において、別種のルールの生成を目論んでいるようで、この点に期待を抱きました。

沢山遼|美術批評/ 美術史、武蔵野美術大学非常勤講師

既存の芸術的・生産的体系に従って作品を制作することと、作品が依拠するところの体系を自ら創出しつつ作品を制作することは、まったく異なる。今回の審査に立ち会って感じたのは、応募者に共通する後者の資質である。そのような態度が要求するのは、「作品」という単位の自明性を疑うことにほかならない。さらに言えば、そのような局面においては、新たな思考を受容しうる方法ないしフォーマットの開発が、作品制作と同時に遂行されるということだ。受賞者の3名(高木生、林利浩、山崎成美)に共通するのは、作品制作に内在するさまざまな要素を解体・再構築し、それら諸要素の新たな結合の仕方を編み出す、動的な生産プロセスの開発である。たとえば、高木生の『てにをは通信』は、現在の閉塞的状況に対する強い危機感に支えられた通信=メディアとして、音楽が置かれた世俗的な分断と自閉的な状況を告発する。そこで新たに希求されるのは、複数の素材や情報を組み替え、読み替える(発信者のみならず情報の受信者をも巻き込む)能力の開発である。順位には入らなかったが、外島貴幸や漆崎泰子のマンガもまた、読者がこれまで依拠してきたマンガの可読性を解体し、新たな読解の方法=ルールを開発しようとする点において共通している。いずれにおいても、配置づけられた複数の要素が、これまではけっして出会わなかった方法で干渉・衝突する。そのような場の創出に賭ける活動こそ実践的である。

林道郎|美術史/ 美術批評、上智大学国際教養学部教授

今回の審査を終えて考えたことの一つは、多層性についてだった。多かれ少なかれ、応募者は皆、ミディアム/システム還元的な態度ではなく、多層的なレイヤーを制作のプロセスに噛ませることを方法的に選びとっている。ただし、その多層性をどのように捉えるかという点で、大きな振り幅があったように感じる。レイヤーを統合された全体に奉仕する部分(一過程)とするのか、全体をつねに不安定化させる暴走機械(とその集積)のようなものとするのか、そういう差異が応募者間の制作態度の差異や、時には個人の作品内部のなかからも感じられた。前者の「洗練」に対して後者の「発明」(と乱暴に言ってみる)がより美術にとって根底的であることは間違いないのだが、現実には両者が「くるっ」と反転しかねない領域で皆仕事をしているのであり、その意味で、受賞者たちの仕事はどれも印象深かった。毎回言うことだが、少数精鋭(?)のこの賞の全体としての水準の高さに脱帽する。受賞者以外に個人的に強く印象に残ったのは、漆崎泰子、木内祐子、外島貴幸の「作品」(50音順)。応募作ではないが、相澤秀人の近作も忘れがたいものだったことを付記しておきたい。

前嵩西一馬|文化人類学・沖縄研究、早稲田大学琉球・沖縄研究所客員講師

|審査会総評(にかえて)|
午前11時にギャラリーの扉を開けると、そこには音楽や映像、絵本などを含む14の作品が「展示」されていた。ポートフォリオ も用意されていたため、軽めのランチを頬張り、目の前の作品をそれぞれ固有のタイムラインに差し戻す。この作業をどれだけ丁寧に遂行できるか、その決定的な意味を後に知る。14名全員が約5分ずつプレゼンを行い、ギャラリーにいる全ての人が質疑応答ならびに討議の空間を構築する。議論になるような質問は控えるという「お達し」そのものをネタにするような身振りが差し込まれつつ、穏やかな批評空間が徐々に(再)編成されていく。高度な明るいコミュニケーションが具体的に事物を捕獲していく様子に幾度となく膝を打つ。その後非公開の審査で、技術を人間に着地させる確かなもの、領域として自律したとたん語れなくなる手前の淡いもの、制度を主体的に利用する逞しいものを、それぞれ芸術の姿として確認した。審査が無事終わり皆と食事を囲む。極上の夢の「2次過程」に参加できた喜びを、私は密かに反芻する。ちょこざいな「傾向と対策」を内破する奇妙で不可避な切実さ、他人の肩や背中を見て切磋琢磨する場の力、そして変わらないことの残酷さといったものが、「パイデイア」、「創発性」、「unlearn」などと他領域では呼ばれうる「教育」プログラム固有の知恵の雨をたっぷりと浴びていた。濡れそぼつ花たちは、ギャラリーの壁だけではなく、それを育てた作家の口元や指先にも咲いていた。ひっそりと佇む見つけにくい花もあれば、次回の大輪を予感させる蕾もあった。ただし賞とは、ひとの手が摘んだ花に実る奇蹟の果実のようなものなのだ。しかもその本質は、この世に落ちた果肉を貪る甘美な音と濃密な汁を吸った淫らな味の「疎外」として吐き捨てられる、「種」に託される。その日、四谷の果実3つ、四谷の種3つの収穫を言祝いだ。

松浦寿夫|画家/ 西欧近代絵画史、東京外国語大学教授

今回の審査に際しては、以前に感じざるをえなかった危惧、つまり、展示作品それ自体よりも、それらの作品が形成された作者の実存的な文脈の配慮への傾斜という危惧は大きく削減されたと思う。一審査員としては、作品外的な指標に依拠する必要のない作品を単に選択すれば良いという事実に従うだけのことだが、今回に関していえば、林利浩氏の作品は、まさに作者の実存的な文脈を示唆するいかなる指標的な痕跡とも無関係に、きわめて充実した成果を達成していると判断した。この二枚の写真からなる作品が、その単純かつ明晰な提示の選択にもかかわらず、奇妙な書き方だが、彫刻的思考というか、彫刻と呼ばれる実践が自らの糧として直面せざるをえなかった諸問題あるいは諸矛盾をきわめて見事に定式化しえていると思う。そしてこの写真表面の統一的な組織化が、その明晰さによってある複雑な思考の局面を描きだしているという事実は、ありうべき作品の様態としてもきわめて示唆的ではないだろうか。

藪前知子|東京都現代美術館学芸員

今年度は、絵画、立体、写真、映像、音楽、ミニコミ誌、マンガ、絵本など多岐にわたる表現が応募され、「芸術」という概念を、自律した各技術を体系化するために事後的に生成するものとして更新し続ける、本校の理念の浸透をここに感じ、刺激を受けた。

高木生は、「てにをは(tnwh)」というそのバンド名が示すように、世界の断片をつなぐ技術を、音楽として実践している。同じフレーズ(「音楽は武器」)の回帰がそのたびごとに異なる位相の経験をもたらすのは、音楽こそが意味の生成の過程(「てにをは」の行使)に触れることができるからだろう。このたび発売されたアルバム『Black Flag』(というタイトルからすでに複数の歴史的文脈が暗示されている)も注目に値する出来で、ジャンルの内部からそれを更新していくような、今後の活躍が期待される。

山崎成美の、何度も上描きされた紙は、彼女の過去作では「動物」の立体の素材として使用されていたという。皮膚としての絵画、羊皮紙の系譜としての絵画——「パランプセスト」と言いうる豊かな含意をここに読むことができるが、興味深いのは、この支持体が与えられたものではなく、作家が仮構するシステムの中で生成されるという事実である。歴史の内側を行為者として生きるようなこの態度は、フィクション/リアルという外部の視点による退屈な二項対立を、やすやすと超える可能性に満ちている。

岡崎乾二郎│造形作家、四谷アート・ステュディウム主任ディレクター

前回より2年を隔てることになった、第6回のマエストロ・グワント応募作は、物理的な作品の強さを抑制した、内省的に考え抜かれた表現が多くなった。一言でいえば、応募作家に共通するのは、芸術を受け入れる場(美術館や画廊などの展示スペース、ジャーナリストや批評家などの言説の場)を前提とせずとも、作品自らがそれが成立する場所を組織し、あるいは内包することが目指されていることである。観客に見られることを拒否しているわけではない、むしろ観客が見る、鑑賞するという行為が受動的であることをこえて作品の構造形成に関わる重要要素として捉えられているということである。いいかえれば匿名中立の場=多数性に立とうとする(類似した作品を参照し作品を理解しようとしたり、知ったかぶりで状況的読み込みをしようとする)観客などをほとんど相手にしない。結果的に作品は、既存の場を疎外(異化)することで、別の場を組織することを促すことになる。疎外されるのは観客なのか、作品なのか? このあり方は教育装置を思わせる。攻撃的ではない、いままで気づかれなかった親和性(関心)が促されるということである。既存の制度への信頼性が揺らいだ、3.11以降の変化を読みとることも可能だが、この変化はもっと以前から現れてもいた。

以上の傾向ゆえに、審査の上位に残った作家群の表現も決して「美術」という一つのジャンルに括られるものではなくなった(四谷アート・ステュディウムという学校の特質が現れた結果ともいえる)。今回、優秀作家はひとりに絞り込むことはむずかしく(2年のブランクがあったことも配慮し)、3人の受賞者となった。ちなみに最後まで競った、外島貴幸は惜しくも次点になったことを記しておく(次回の応募を期待したい)。

高木生。日本語における詞と辞構造が建築や造形芸術の構造に通底、接続していると見抜いたのは本居春庭→時枝誠記の系譜である。高木生の活動「てにをは(tnwh)」は八方にこの領域を横断するコンテクスト生成力=辞の構造を、音楽活動の核心にしていることに特徴がある。音楽が線状にしか聞こえないこと、つまりその線に束ねられ(隠された)無数のラインを縒り、また解す。交通の要所=「やちまた」(八衢)としての音楽。

山崎成美。言葉を受け止めてくれるだろう場がなければ、人は言葉を発しはしなかっただろう。絵画も同様。絵画にとって支持体とは単なる物質的支えにとどまらず、すでに先行=潜在する絵画表現が行われてきた場としてそれがあること。つまり絵画を絵画として受け止める場への信を保証することにある。パランプセストのように、先行する表現の積層が支持体の強さとなっている。今や/ 未だ、ここには見えず聞こえない表現がそこにあること。それが表現の場として支持体があることの意味である。絵を描く前の支持体、制作過程の厚みに、表現の核心を移行させる試みの意味は重い。

林利浩の仕事は写真というジャンルには括れない。その作品の形成論理はむしろ彫刻であり、またその彫刻性は物質形成術として身体表現の核心をついてもいる。身体の力動の流れを示す衣服の皺はエティエンヌ=ジュール・マレーが試みた不可視の力線を表出させる試みを受け継いでもいる。外部からの視線=つまり写真としての視点がなくても、物質内の諸力の葛藤と均衡から力線はつくりだされ刻印される。それが身体であれば、この内的制御は身体技術そのものだろう。写真がそれ自身、出来事であるのは、この内的均衡を視線という外部の物理的枠組みが干渉する(締め上げる)ときである。