2010年第5回マエストロ・グワント総評

川出絵里|『美術手帖/BT』副編集長

今回、1つ、多くの方に共通して思わされたことがあった。自分は何にどう心惹かれるのか。一番かたちにしたいことは何か。欲求の基本に向かい合い、シンプルな「?」を投げかけるのは、単純なようでとても難しい。輻輳するファクターを見直し、欲求の必然や意想外の可能性の中から取捨選択する──「自分」を疑いながら捉え直すこと。簡単であるわけがないが、大切ではないだろうか。
昨年度、殆ど完璧といってもいい秀逸な作品(特にテーブルとシャベルなどのピース)を見せてくれた篠崎氏は、その美しく洗練された日用品を用いたプレゼンテーションを敢えて留保し、構造体と均衡自体にフォーカスした新作を見せてくれた。展示の制約がなければ、より設置空間の構造や鑑賞者の身体にまで関わるスケールや形態もありえたかもしれないが、果敢な選択と明確な意志に非常に感銘を受けた。また西浜氏も、既に完成度の高い仕事を持続している作り手だ。昨年の作品を一方で純化・強化しているが、音や音楽という魅力的なテーマのうちには、まだ多様な可能性も残っているかもしれない。そして、外島氏のマンガと超短編小説も、独特の世界観が印象的だった。

林道郎|西洋美術史/美術批評、上智大学教授

構造と素材、そしてそれらを媒介する技術(テクネー)の発見。そういった次元で「美術」を思考/試行することは、「分かりやすい」もののファシズムが美術の生産と流通のシステムを覆い尽くしつつある現在、日々難しくなりつつある。美学的な言説を席巻した反復と差異という対概念も、本来は、表層と構造の重層的かつ再帰的に絡まり合うシステムの次元において思考されねばならないのに、むしろ、自動的な差異発生のメカニズムとして捉えられ、思考停止を正当化するイデオロギーになりかねず、事実、そのような風景が支配的になりつつある。そうした状況の中で、制作の再帰的革新の現場としての「美術」を意志し続けるのは困難なことだと想像するが、今年の審査でも、それが日常的な実践を通じて継続されているのをあらためて確認した。
その構造論理的な次元における意識の高さには驚きと可能性を感じたが、他方で、そのような探究が内在する問題が鋭い形で表面化しているという感想も持った。個々の応募者についてのコメントは差し控えるが、総じて、方法的な次元における「一般解」に対して、「特殊解」としての作品が予定調和的なイラストレーションになってしまいそうな傾きがあって、一抹の危うさを感じる。美術的な営みの特殊解が、一般解からの絶えざる逸脱、あるいは一般解の不可能性を示唆するような「文法」を、理論的な次元ではなくて――ウィトゲンシュタイン的な言いかたをすれば、理論として対象化できるものは文法ではない――経験的(感覚的)な次元で体現するものであるとすれば、そのような可能性を感じさせているかどうかが、今回の審査でも重要なポイントになったように思う。未だ姿を現さず、十全な形で現れることもないであろうような「文法」の発明。そういう感覚をもたらしてくれるかどうかが、少なくとも私にとっては重要な鍵になった。

松浦寿夫|画家/西欧近代絵画史、東京外国語大学教授

何回かの審査に立ち会った経験から、このマエストロ・グワントの審査形式それ自体が、参加者の自らの作品に対する位置に大きな制約を与えているのではないかという反省的な問いに直面せざるをえない。端的にいえば、審査に含まれる質疑応答という形式が、それぞれの作者に対し、提示された作品を位置づける文脈の口頭に拠る補足的な説明への依存度を増大させることになってはいないかという疑問を拭い去ることができないということだ。ここに提示される作品群を単純に「Yotsuya Art Studium」的と簡単に要約してしまうような指摘を共有する意図はまったく持ち合わせていないし、そのような単純化を拒絶することに迷いはないが、にもかかわらず、授業の枠組みの内部での作品提示のような、文脈依存度の高さには疑問を禁じえない。その意味で、今回の審査においては、篠崎、吉田の両氏が原理的に選択した明晰さはきわめて興味深いものであった。そしていうまでもなく、明晰かつ単純な原理的選択は思考の真の意味での複雑さと何ら矛盾するものではない。

藪前知子|東京都現代美術館学芸員

今回のマエストロ・グワントについては、過去3回審査に参加したなかで、応募作の性格に最もバラエティに富んだものを感じた。しかし手法は違えど、本来不連続なものとして存在する諸要素を全体としていかに結びつけるかという点に、共通の興味が寄せられていたように思う。それは、均質化していく世界を、特異点の集まりとして編み直すための、切実な作法を導くはずである。その緊張をもっとも体現していたという点で、私は、篠崎英介の作品を受賞にふさわしいものとして選出することとした。重力や張力やその反作用という諸力の均衡を、立体作品において追求してきたこの作家は、今回、これまで用いてきた日用品や工具などの魅力的な構成要素を捨て、同じ規格で長さの違う木材を素材として選んだ。その積み上げ方にも規制を設け、目の前に広がる無数の選択の可能性を整理することによって、彼は作品の構成要素を、そこに流通する力の性質を読ませるための言語のようなものへと変換させることに成功している。貧しさをもって無限の豊かさを提示しようとする意思は、過去のマエストロ・グワントたちとも道を同じくするものであり、年若いこの賞にも、受け継がれるものが確かに生まれてきていることを喜びたいと思う。

岡崎乾二郎│造形作家、四谷アート・ステュディウム主任ディレクター

全体として、今年度の応募にみられたのは堅実さである。展示効果としてインパクトを与えようとする意欲は希薄である。日々の思考と制作の成果を衒いもなく提出した印象ともいえるかもしれない。展示、流通という形式に対する懐疑が作品形式に内面化されはじめているとは確実にいえるだろう。その分、各作品は(その見かけを超えて)、緻密に考え抜かれ組織されてもいる。
昨年度につづき今年も応募した篠崎英介の作品は、日常的な器、道具の使用、参照が排除され構造的問題に絞りこまれている。表向きは即物的に積み上げられた角材が、異なる時間順序の構造によって重層的に決定された秩序である点に醍醐味がある。ある意味でこの発想は梶原あずみの写真にも共有されている。地層のズレに代表されるように、写真として、選ばれて現像されているのは、異なる時空スケールの衝突、不整合である。それはそのまま写真として現れている像とその写真としての存在との存在論的な差異に重なる。写真自体が地滑り=不整合な地層である。概して、複数の時間軸の織り込みは応募者全員に通じる問題群のひとつであった。時間芸術はもはや音楽あるいは映画のみの特質ではない。あるいはさまざまな時間を束ね組織することが音楽なのであれば、すべては音楽である。西浜琢磨は音楽の参照源となる事物(記譜)であることから離れ、布の織り込みに徹したがその意味で相変わらず、音楽である。吉田正幸は進行する口の動きと、そこから発する音声(言葉)の進行そのものにズレを起こす(ときに逆行している)。時間はここで相対化されているが、ズレそのものは普遍化されている(逆再生させようとこのズレはそのまま変わらず残る)。同じく言語を使った外島貴幸のマンガはコマから次のコマへ読みすすむことがそのまま、コマが描き直すこととなるというマンガの原理をそのまま経験として実現しようとしている。その瞬間明滅する地滑りのような感覚(未知な時間の生成)を捉えることができなければナンセンスマンガとしか映らないだろう。
複数の異なる時間軸をもつ制作プロセスのアンサンブルとして作品を捉え、それを作品として形象化しよう(形象として象ろう)とする意図は、表向きははるかにオーソドックスな(絵画、彫刻などの)形式に沿っているように見える。残りの応募者全員、長倉友紀子、長尾圭介、芝美代子、高木生、舟越淳、三品安美、山崎成美、全員にも通底している。紐の偶発的かつ構造的(結び目理論)な形状から、色彩平面を組織した、三品安美の周到かつ繊細な仕事は注目に値する。
投票の結果、篠崎英介にマエストロ・グワント最優秀賞、次点として西浜琢磨、3位吉田正幸、4位外島貴幸に決まった。以上は展覧会を開催する。三品、梶原は順位に入らなかったが議論に残った。