2009年第4回マエストロ・グワント総評

川出絵里|『美術手帖/BT』副編集長

今回のマエストロ・グワントは、昨年にも増して、「審査する・される」という目的以上の魅力的で有意義な機会を提供してくれたと思う。昨年の出展者たちの中には、自分なりの方法論を相当に絞り込んで定め、結果、作品としての完成度も研ぎ澄ましたケースが、少なからず見られた。その点では、今年の出展者たちは、より「ブレている」。方法論や作品の中に、良くも悪しくも、未解決な何かが残されている。意図的にせよ何にせよ、あえて「解決しきれないもの」に挑む表現ならではの困難と、それ故の可能性が感じられて面白い。
この「解決しきれないもの」とは、たいへん大雑把に括ってしまえば、「現実そのもの」のようなもの、といえるだろう。つねに複数で、分散、錯綜する現象のあらわれ、法則性と偶発性の共存する世界の成り立ち、定まった指標を持たない知覚と意識の流れ、不定形で曖昧な自己とモノの関わり、無数の「ありえたかもしれない」選択肢の中の「現実」、等々。こうしたものたちと、「(自分が)行為すること」で、どう折り合いをつけるか。作者自身の制御を超える可能性を持ちながら、ある種の所与の法として機能するシステムを制作行為の基盤として課し、そこから「現実そのもの」を再編し、(一回性の)システムとしてリ・インストールしようとするような作品が非常に多かった。これはとりわけ90年代後半以降現在までの、国内外の他のアーティストにも多く見られる態度だろう。「解決しきれないもの」こそが現実感を持つこの時代に、何かの答えを決め込まず、よすがとなるリアリティーの片鱗を探し、その稀有な感触に真摯であるには?
7人の出展者たちはそれぞれに、そうした問いへの距離の測り方を模索し、その過程と現状を見せてくれていたと思う。鶴崎氏の作品は、制作のシステムの確かさに加え、結果、生まれてくる作品のありようにおいても、その場と感覚を共有する他者に対して、開かれたものを感じさせてくれた。より大きな状況設定をした作品を見てみたい。西浜氏の作品も同様に、システムと作品の両面で洗練されたものだった。音楽と視覚的な形態・形式を、さらにダイナミックに関わらせた場を見てみたいと感じた。

松浦寿夫|画家/西欧近代絵画史、東京外国語大学教授

今年の審査においても、前年同様に大賞選出はきわめて困難な作業であった。とはいえ、今回の困難は、提示された作品群の質的な同等性による以上に、この提示という作業それ自体を決定的に疑問に付すことを観者に要請するという点を共約可能な特性とする作品が多く出品されたことによるといえよう。もちろんそれは、現代美術における多様な展示形式と表現されるような無意味な偽の問題にかかわるものではなく、視覚化不可能な領域の視覚への提示という様相の問題である。単純化していえば、時間的な秩序=序列の次元の視覚への提示といっても良いかもしれない。とはいえ、この問題の提起は今日に始まったわけではなく、おそらくもっとも原初的な絵画の作者たちも遭遇した問題であって、たとえば、観者の視覚に余白として、いわば同時的な広がりとして示されるものが、二つの筆触の間に広がる時間的な断層でもあるという画家たちに途惑いを与えずにはおかない問題と同質であるといえるはずだ。同時的な視覚経験に与えられる時間的な序列、しかも、この序列を観者が視覚的に享受する可能性は何によってもたらされうるのだろうか。この序列のノーテーションの付加的な提示という説明過剰性に依拠しないことは、可能だろうか。これを、作者たちへの問いかけとし、一方で、批評は時間的序列の視覚的経験の可能性の条件を模索するという課題を引き受けることを要請されている。

藪前知子|東京都現代美術館学芸員

まず、一年の変化に目を見張った。多様な選択肢の中で揺れているように見えた昨年に比べ、今年の応募作品の多くは寡黙でありながらも迷いなく立っていた。複数の可能性をその背後に予感させたうえで、こうせざるを得ないという切実感があった。それは、視覚に与えられる形式として適切な選択を、あえて外しているように見えるせいかもしれない。人知れず自生する植物のような、自律した存在の寡黙さは、美術(のみならずあらゆるメディア)が持つ、流通も含めたさまざまなレベルでのスペクタクル性について、別の可能性をほのめかすものとも取れる。特に眼を惹いたのは、自然や物理現象などの外部的な条件を利用しつつ、ささやかながらひとつの宇宙にも比すべき「環境」を作り上げた、鶴崎いづみ氏と篠崎英介氏の二作品だ。鶴崎氏の受賞作である、他者との応答によって繋がれていく人工的な木の枝は、コミュニケーションのツールであり、時計であり、擬態による同化と増殖を繰り返す社会の縮図でもあるような、多様な読みを促す作品である。篠崎氏の作品は、均衡によって複雑な構造が一体化するというものだが、コンポジション的に解決されたものではなく、部分の連鎖によって調整を繰り返しつつ実現されており、循環を喚起することで、空間的な情報を時間的なものへと変換させる。その他の応募作品にも通じることとして、これらの作品の捉える現象のささやかさ、一見したわかりにくさは、かえって大きな枠組みを持った連想を引き寄せるものであった。受賞展も含めた応募者たちの次の作品が、大いに期待される。

岡崎乾二郎│造形作家、四谷アート・ステュディウム主任ディレクター

今年度のマエストロ・グワントは応募者7名という人数の少なさに反して、例年に増して全員の質が高くレベルが揃っていた。より正確に言えば、各応募者の提出したファイルおよび実作品はどれも絞り込まれたコンセプトの明確さ、方法論の一貫性が感じられるものが多かった。
7名すべてに共通する傾向もみられた。この作家たちはみな、〈作品展示〉という、作品が時間的空間的な静止点に位置づけられること、固定された対象として作品が扱われ鑑賞、評価されることを拒む志向と方法論をもっていたのである。いきおい作品は時間的、空間的な広がりをもち、そのシークエンス、あるいはプロセスを把握しないかぎり、作品の総体を理解することはできない。いいかえれば観客は自分自身の見るという行為(プロセス)によって、そのプロセスの中に組み込まれることを求められる。すなわち、これらの作品はどれも、ギャラリーを含めた既成の展示制度=メディアに位置づけられるものではなく、それ自身がひとつのメディアとして自律するものとして、考案されている。
作家たちの粒が揃っていたこと。そのそれぞれが独自のメディアとして固有の文脈を組織しようとしていること。こうした要因もあって審査は困難を極めた。全員を選ぶという案すら話にでた。審査選抜は2段階で行われた。最初に半数に絞り込むために審査員ひとり持ち票2で投票をした(計8票)。結果として西浜、篠崎、鶴崎、相澤の4名(それぞれ2票ずつ均等に票が分散され)が選びだされた(じつは審査員のひとり=岡アが勘違いして3票投じたため、篠崎のみ3票集まった)。議論の結果、ここで選ばれた4名に評価の上下はつけがたいことが確認された。ここで、あえて一人を選ぶとすれば、作品の質ではなく、選ばれたことの意味を問われなければならない。

西浜はそもそも音楽を専攻し、楽譜と演奏の関係を、テキスタイルを織る過程の構造へ展開してきた作家である。その展開はユニークで美術の文脈でのみ評価できるものではない。篠崎は建築専攻から事物が組立てられる順序構造に関心を集中し探求を深めつつある作家である。鶴崎は今回参加した中で唯一の女性作家だが、作品を制作する作家の身体行為あるいは作品を見る観客の身体行為が、作品形式の枠=形態を浸食、越境し、不可視/可視の境界を作り出してしまうという、作品を見る/触れる/作る過程において、メディウム(主体と対象、空間、時間を結びつける媒体)としての作品形態がまさに変容していってしまうことにこそ関心を集中し制作してきた作家である。相澤は長いキャリアをもつ作家であるが近年、急激に作品を展開しつつある。ここで作品は視覚というよりも身体行為に関与する関数(機能的な道具)として、組みたてられている。もとより、この4人が同列一位であるという見解においては審査員全員でほぼ一致していた。ゆえに、ここから大賞をひとり選ぶことは 別の次元の判断である。あえていえば、もっとも(既成の文脈での)評価のむずかしい作家を選ぶべきでないだろうか。つまりマエストロ・グワントという賞がなければ、他では選ばれることのないような、もっとも定位しにくい作品。

こうした議論ののち再度、各審査員1票で2段階目の投票を行った。結果、鶴崎2票、西浜1票、相澤1票、篠崎0票という結果になり、今回のマエストロ・グワントは鶴崎いづみ氏に決定した。彼女が選ばれた理由はもっとも定着が困難な課題をひきうけ展開しているという点につきた。鶴崎の仕事が存在し持続することはきっと他の作家たちにも励みになるにちがいない。責任重大である。なお展覧会はマエストロ・グワント応募者全員を組み合わせたシリーズとして行うことにした。

マエストロ・グワントに応募できるのは一回かぎりではない。いうまでもなく、これは作家の最終的な評価などではない。今回に終わらず、ぜひ再度挑戦していただきたい、そういう思いもあり、以上のような結果とその審査過程を公開する次第である。
(ちなみに第一段階での審査員それぞれの持ち票2は等価であった。この段階で篠崎の作品が3票を集めていたが、最終審査では0になったことの説明になるだろう。若干の説明をすれば、プロファイルの審査では篠崎はさほど注目されていなかった。だが今回実際ギャラリーに展示した作品のなかでは、ずば抜けて説得力があった(その構造が視覚的には理解できない)ため、全員の票が投じられた。一方で作品歴がまだ不十分であり、今後の展開をみたいという意見も聞かれた。いずれにせよ、もしこの審査がギャラリーに展示した作品でのみ選ぶのであったら篠崎の作品が一位であった)。