審査することは、審査されることだ。作品に触発され、いくつもの単純で本質的な疑問が浮かび、それをフィードバックする。関係性において考える批評の交換。結果以上にその過程で、私自身も、願わくば作家たちもが、多くを学ぶ場になったと感じる。
高嶋氏の作品は、視覚的にもコンセプトの面でもきわめて端正だ。身体と物のリアリティを測り直す新たな基盤を簡潔に表現した写真も、揺らぎをとらえたビデオもだ。次回は「わけのわからない現実世界の中での関係性」の模索を期待したい。瀧口氏の作品は、個人的には解釈と判断にもっとも苦しんだ。「大ガラス」から科学実験的作品まで、自己完結メカニズムを探求した過去の作品は多々存在する。物理現象の呈示をアートの文脈に持ち込む以上に、(諸技術のネットワークであれ、新型エネルギーの模索であれ、なんでもよいのだが)より外部に向かってアートの可能性を拡張する装置となりえたのではないか。深く考えさせられた。
どこかブリコラージュ的な応募作の多かった今年、力の均衡と運動をめぐる実験の数々が印象に残った。均衡といっても安定ではなく、どこか破れや崩れの予感をつつんでいる。大賞をわけた高嶋さんと瀧口さんの仕事は中でもやはり出色だった。高嶋さんは、パフォーマンス、映像、彫刻的アレンジメントなどを多元的に連結させ、「身体」をめぐる遠心的な断章群を呈示。直感的な部分と理論的な蓄積の交差が、奇妙な捩れ感をつくりだしていた。瀧口さんの井戸を思わせるインスタレーションは、ユーモアと繊細さと不気味さを同時に感じさせ、その中をゆっくり浮沈する袋は、自動機械化された内臓のような忘れがたいイメージを残してくれた。そのほか、個人的には、絵具とカンヴァスを物質として問い直し、絵画の表面を文字通り「粒立たせ」て見せた村山さんの仕事、あるいは、不器用かつ無意味に、それこそ破綻の予感を漂わせながら回りつづける扇風機のような作品を、ストッキングと空き缶という素材をつかってつくった坂川さんの作品にも、素材と力の均衡についての、思ってもみなかった角度からの問い直しという意味で、大きな可能性を感じた。
提示すべき課題をきわめて明晰に意識し、それに相応しい形式を構築することに成功し、その意味で、観衆にこの課題の意図を明解な仕方で伝達する作品、とはいえ観衆が享受しえるカタルシスには茫然自失の契機が希薄であり、観衆は鑑賞者の安定した位置を確保できる作品。自分の作品がどのような問題に遭遇しているのかを作者自身が発見していないかのようでありながら、観衆を作者の意図を超えでる場所へと誘う不可解な作用力を備えているようにも見える作品。自らが取り組む課題が何と接続可能なのかという問いをたてる手前でこの課題に没頭するあまり、作品という枠組みへの着地すらも考慮の対象たりえなくなってしまう作品。
今回、審査対象として提示された作品群はいずれも優れた成果であったため、優劣をつけること自体きわめて困難な作業であった。それはまた、とりあえず記述してみた上記の3つの型の間で優劣をつけること自体の不可能性でもあったといえる。だとすれば、課題をきわめて明晰に自覚し、それに明解な形式を与えながらも、その実現において鑑賞者をその作品の外部へと否応なく誘い、無数の事象への接続の回路を提示しながら、ほとんど作品とは呼びがたい様相にいたる作品を作り出すことが求められているということだろうか。だがそのとき、もう一つの課題が明瞭に姿を現すことだろう。つまり、そのような作品を評価しうる批評は存在しているだろうかという問いである。以上の課題を明晰に記述したのが、「創造行為」のデュシャンによる芸術係数の問題であることは誰もが知っていることだ。
ともあれ、今回もまた、マエストロ・グワントは、来るべき作品とともに来るべき批評の条件を思考する機会を提供してくれたはずである。
この学校には議論の場があるゆえに、ここから生まれてきた多くの作品のあいだには、たがいに結びあう影響関係の糸が見える。しかしひとつの「スクール」として把握するには、その見かけは実に多様だ。それはおそらく、技術やシステム自体を制作のうちに開発・発見していくことが目指されているからで、受賞作はいずれもこのことに対する明快な解答を示していた。既存のなにものにも回収されない表現の自律性が問われる一方で、応募作品の中に、工芸的な質や、「ポップ」性など、受け手の解読コードについての意識が散見されたのも興味深いことだった。未知の言語が流通しうるこの学校はやはりひとつのユートピアであり、外部との対話の中でこそ、表現の真の強度が試されることも実感された。受賞者はもちろん、今回は逃してしまった方々も、今後はさまざまな場所で積極的に発表の機会を持ち、この「スクール」の存在感を示してくれることを期待したい。
時間を呑み込み、空間を吐き出す
空間そして時間は、決して客観的形式として確実に存在するわけではない。
――こうした認識は(遡ればカント以降)現代の哲学そして科学において自明な事柄である。
けれど芸術表現において、外的な形式としての空間や時間に、いっさい頼ることなく、作品みずからの生成によって、同時にその作品それ自身を含みこむ空間と時間をも生成させるという試みには滅多に出会えるものではない。
たとえば、地面がないにもかかわらず、歩くという行為だけで地面を作り出す。
時計がないにもかかわらず、お湯がわくという行為で時間を決める。
(いくら地面があっても、歩けなければ地面の意味はないし、3分間待つといっても肝心のお湯がわかなければ、何にもならない)。これは当たり前の理だが、にもかかわらず世界はいつも行為に先立って、われわれに立ちふさがる。
高嶋晋一。瀧口博昭。今回二人(も!)選出されたマエストロ・グワントたちは、こうしてわれわれの前に立ちふさがる世界を、まず拒絶する。いやみずから外に出る。そこは何もない。だが大丈夫だ。
キャンプする気軽さで彼らはそれを実践する。時間があるのではない、時計が時間をあらしめる。空間があるのではない、羅針盤が空間をあらしめる。手をぐるりと回転させること。足を交差させるという行為で充分である。仕事ができる場所、それが空間であり、時間である。(それは宇宙空間でも行える)。
ひとりの人間としては小さな一歩にすぎない。しかし、それは人類にとっては(いつも)大きな一歩である。
すなわち歴史は、個々の行い、よりも、はるかに小さい。
芸術が世界の始まりをやり直すことという古代の教えに従えば、高嶋そして瀧口は、それを平然黙々と行なう、現代のデミウルゴス、マイスターたりうる。