第2回マエストロ・グワント優秀賞 宮崎直孝へのコメント

胃の恋わずらい──彼の胃が彼の肺にいだいている、到底人にはいえない痛みと喜び──ab・sorp・tionの正確な運用。

岡崎乾二郎│造形作家、四谷アート・ステュディウム主任ディレクター

コンポジションあるいはアッサンブラージュの問題点は、多くの異質な部分を含むように見えても、所詮それが部分の(連関なき)集合であり、その全体はそれを見る者の視覚的感覚=趣味によって、まとめられているにすぎないことにあった。つまり見る者のセンスの投影にすぎない──。
対して宮崎直孝の発明(作品と呼ぶには天才すぎる)─は無数の異なる自律系(内臓のような)を(視覚などを通して)外部から観察(観測)されることなしに、連関する系として構造化することに成功していることにある。それらは蠢き、もだえ、呼吸しているが、完全に系として完結し、ひとつの循環系を作りだしている。すなわち外部からそれを観測するわれわれは、その閉じた系から完全にはじき出され、そこで起こっている出来事に生起しているだろう感覚のいずれも知ることはできない。あたかも、人知れず、体をわずらう他者の感覚を知ることができないように。とはいえ、おそらく彼(ら)の感覚は決して孤独であるわけではない。むしろ、誰もが知るように、トラブルに襲われている(300メートル全力疾走したあとのように、あるいは恋にわずらっているときのように)彼の体の内部は、(猫の手を借りたいほどの)繁多繁忙で、ごったがえしているのである。賑やかなどというものではない!
外部からは、そこにひしめき合う多数の感覚の豊かさは到底知ることができない。孤独なのはむしろ、その豊かさから疎外されてしまっている観客のわれわれである。
ab・sorp・tion( 1 吸収、吸収作用。2 併合、編入 〔into〕。3 夢中、没頭、専心。)という用語を正確に使うのであれば、宮崎直孝の発明(くりかえすが、作品と呼ぶには天才すぎる)に対してのみ使うべきである。もはやab・sorp・tionという用語は宮崎に独占されたのだといってもいい。
これを推薦しないで、何を推薦できるのだろう!!

たとえば右手で左手を握ったとき、右手で自覚された(私は左手を掴んでいる) という感覚と左手で自覚された(私は右手によって掴まれている)という二つの私は一致しない。たとえば右手はそれを細く冷たいと感じ、左手は強く暖かいものに掴まれたと感じる。私はいったい冷たいと感じているのか暖かいと感じているのか。──メルロ・ポンティが指摘したような知覚における主体の分裂をいうのであれば、われわれの身体の内臓たちの知覚は、はるかに複雑怪奇、支離滅裂に分裂しているはずだ。
内臓感覚と一言でいうが、われわれの身体の内部にはさまざまな内臓がひしめきあい、たがいに自律した感覚をもち、相手からの圧迫あるいは愛撫を感じあっている。内臓たちはそれぞれ感覚の自律性をもっている(たくさんの主体がある!)胃が痛むというが、実際は腫れた胃の圧迫によって小腸が肺が食道が痛むのかも知れぬ。いやその痛みを感じ痙攣する腹膜によって、肋骨がきしんでいるのかも知れぬ。