Experiment Show

芸術とは実験である(科学には《この経験》こそが必要である)。

岡崎乾二郎│造形作家、四谷アート・ステュディウム主任ディレクター
1.

いかなる観念にもとづいていようと、芸術作品は作品として現れるかぎり、いつでも特殊でしかありえない。観客はそれぞれの固有の経験によってその作品を理解するほかないし、その作り手である作家もまたひとたび自分の意図を括弧に入れ(忘れて)、経験しなおすことが求められる。

だから芸術は、その意味でつねに実験である(なければならない)。すなわち特殊が普遍とつながる自明な関係をひとたび解体し、また新たにむすびつけなければならない。

2.

科学において実験とは、第一に具体的、個別な事例として得られたデータ(出来事、経験)を一般化されうる定式にむすびつけること、特殊から普遍を導きだすことでもある。第二にひとつの定式から、具体的な事例を演繹的に引き出すこと、つまり普遍から特殊を引き出すことである。第一の場合、実験は文字通り発見的な過程ともなりうるが、求められているのが一般化される定式にむすびつけることである以上、一般に(回収され了解できるという目的によって)、あらかじめ具体的な事例が規定されてしまうという(特殊と普遍の)事前の癒着が生じる。つまり実験はあらかじめ設定された認識の枠組みの反復にすぎないということになる。

しかし方向が逆さまの第二の場合、この癒着はむしろ積極的な意味を持つ。ここで実験とは、あらかじめ措定された抽象的な公式を、具体的な事例、個別の経験として了解させるためのデモンストレーション(より正確にいえば)プレゼンテーションである。それは知識としては、あらかじめ判っている結果の反復であるが、にもかかわらず、こうした抽象的な公式(普遍的な理)が了解されるためには、あくまでも個別な経験=特殊として、それは(ひとり、ひとりの個人に)そのつど体験されなおされる必要があることがここに示されている。つまり普遍(的な理)は特殊(一回性の個別な経験)に再度、位置づけられないかぎり、実感として了解されえない。科学的な知が社会的集団的な共有を前提とするかぎり、この過程は欠かすことができない。この意味で科学における実験デモンストレーション、プレゼンテーションの役割は今日ますます大きくなっていると言えるだろう。

3.

こうして、今日の科学の現場において、科学は芸術に憧れることになる。科学が必要としているのは、抽象的(普遍的)な理論を具体的(直感的)に理解させる術、その了解の方法である。(いうまでもなく了解の方法とは、理論ではなく、むしろその都度組み立てられるレトリック、術である)。いかなる理論であれ、集団において了解が成立しなければ理論として成立しない。(科学といえども、社会的な合意を前提とした集団形成にもとづく以上、そこで行われる提言は、こうした世俗的なレトリック=処世術に依拠するほかはない)。

4.

だが芸術において実験は、ほんらい、自分の実感、感覚を信じないところからこそ生み出された。すぐれた芸術家で自分の感覚を信じた人間はいない(この事実は誤解されている)。信じないがゆえに得られた感覚を解体し、別の事例として再構築される必要、つまりゆえに芸術作品は作られる必要があったのだ。(たとえば目で見た光景をたった三色の絵の具に置き換えることは、実感の解体と再構築以外の何ものでもない)。

芸術家にとって制作=実験(プレゼンテーション)とは、むしろ自己を解体することであり、解体されて現れる別の自己を、再構築するために行われる必須の過程である。いいかえればここで、実験はひたすら経験の特殊を確保するためだけに行われる。すなわち、そこで特殊とはあらかじめ確保された、いかなる主体にも属さない。つまりはあらかじめ確保された一般にも普遍にも回収されない。いわば特殊と普遍の回路のどちらを固定することもなく、その双方の関係を一挙に解体し刷新すること。つまり特殊な関係それ自体を成立させることを目指して行われる。芸術はこの意味で自己のみならず、社会の創成=革命そのものの原理ですらある。なぜなら、これこそがいかなる特殊=実感にも局所化されえない、普遍を獲得する道であるから。

5.

くりかえせば実験とは革命の(その可能性を確保する)条件である。 ゆえにわれわれは実験を行わなければならない。