2003.05.01 津田佳紀

テクノロジーの楯と矛〈1〉
── 戦争とは他の手段によって追求される○○である

 宣伝と投機と潜在性に彩られた今度の戦争は、「戦争とは他の手段によって追求される政治である」というクラウゼヴィッツの公式に、もはや対応していない。湾岸戦争はむしろ、他の手段によって追求される政治の不在に対応していると言えるだろう。戦争が起こらない状態は、現代政治の不確実性についての恐るべきテストである。株の大暴落が経済とその目的の不確実性にかんする決定的なテストだったのとおなじことだ。こうして、あらゆる出来事は情報とその目的にかんする恐るべきテストとなる。(註1)


 このテクストは湾岸戦争を顧みたジャン・ボードリヤールによって書かれたものである。『湾岸戦争は起こらなかった』という一見反動的なものと誤解されるようなタイトルのため、発表当時は随分と当て外れな批判も受けた。ただ、2003年の「イラク戦争」について考える際、このテキストは重要な意味を内包している。

 「戦争とは他の手段によって追求される政治である」というテーゼが不可能になった時、政治の不在を埋め合わせるものは何なのか?たとえば政治のかわりにテクノロジーの再生産という言葉を代入してみると、アメリカのタカ派的戦略が、湾岸戦争からイラク戦争までの期間どのように展開したのか想像することができる。ボードリヤールがこの著書のなかで対象としているのは、主に情報テクノロジー(狭義にはマスメディアの技術)だが、13年の年月を経た現在からみれば、この期間に潜在的な戦争に向けてのテクノロジーと実際的な戦争のテクノロジーとが、どのようにネットワーク化されたかということを、再検証する必要がある。そして何よりもアメリカのタカ派がどのようにして、「戦争がおこらない状態」を「戦争がおこっているように」見せかけたか?という疑問を解かなくてはならない。

 テクノロジーの歴史から考えれば、軍需産業からスピンアウトした技術が、民生品に応用されるということが常である。そういう意味では「戦争は発明の母」として君臨してきたという事情がある。他方、その技術革新によって社会の総生産力が臨界点に達した時、生産が需要をはるかにオーバーしてしまうという現象がおきる。平時における市場の原理がまったく通用しなくなったこのようなケースにおいては、戦争が起きて(起こされて)過剰部分を消化しているという指摘もある。

 今回のイラク戦争の要因として、宗教問題、石油利権、2人の独裁者(フセインとブッシュ)の個人的確執などが推測されている。ところが、これらの固有名に根ざした要因とは別に(むしろその背景に宿るもっと根本的な要因として)テクノロジーの革新とそれにともなう生産効率の過剰という問題が、市場経済のもつ本質的な病理として現れているのではないだろうか。アメリカのタカ派的視点から見ると、この状態は逆転してとらえられる。むしろテクノロジーの再生産自体が戦争のモチベーションであり、そのためにもう一度、すべてのテクノロジー間のネットワークを再構築しようという戦略がとられることになる。もちろんそこには、もはや従来の「政治」は存在しない。

 これまでの近代における多数の戦争と今回のイラク戦争が根本的に異なる点が、ここにある。兵器テクノロジーにおいては、アメリカ/イラクの兵器の性能は雲泥の差であり、性能面でまともに対峙することはけっしてなかった。一方的侵略による開戦のケースは別として、近代における戦争では、戦闘する意志をもつ国と国の兵器能力は、対等ではないにしても、何らかのかたちで対戦を可能にするだけの兵器性能のアドヴァンテージを両国が有する中で開戦にいたっているものだ。今回のイラク戦争では、未だに発見することのできていないイラクの化学兵器や大量殺戮兵器が、偽のアドヴァンテージとして吹聴されていたという側面はある。それを差し引いても二国間の兵器性能差は、とても勝負になるような状態ではなかった。したがって兵器テクノロジーに関するこの話題の中心は、査察に揺れたイラクにではなく、アメリカにこそある。

 戦闘の過程で、稀にアメリカの戦車が破壊されたが、それはイラクの兵器によってではなく、アメリカ軍の爆弾誤射や味方同士の相撃ちによるものであるという事実がある。もはやアメリカの兵器を破壊できる能力は、アメリカの兵器にしかないのだ。このようなアメリカの一人相撲を見ると、今回の「戦争」は二国間による戦闘ではなく、オーヴァードライヴしたアメリカのテクノロジーが自己破壊的な行為を繰り返したと見なすこともできる。このさい国家という枠組みを外して、純粋にテクノロジーの側面や、生産システムの面から事の次第を観察すると、これまで「戦争」とよんでいたものが、現代では敵をたたくことではなく、みずから自己崩壊するプロセスに突入することへと意味を変えてしまったといえる。

 一見平和な市民生活と、それとは対極的な「戦争」状態が、テクノロジーの革新とそれにともなう生産力の増大を媒介として連続しているということ、また現代がそのプロセスの最終段階として自己崩壊するレベルに達しており、アメリカという国家がそれを体現しているということが今回のイラク戦争において明確となった。今アメリカは、誰の反対も無視して開戦し、圧倒的に勝利したと吹聴できる立場にある。(仮にそれが従来の意味の戦争でなくても。)



註1:『湾岸戦争は起こらなかった』ジャン・ボードリヤール著 塚原史訳 紀伊国屋書店

[PAGE TOP]
[BACK]