2003.12.01 岡崎乾二郎

なんたる忠誠?
初出:『世界』no.721(2003年12月号)

1.
 日本というのはつくづく不思議な国である。国家がおおいなる危険とリスクを伴う非常事態である戦争に関わるには普通に考えて、尋常ならぬ決意が必要とされる。ゆえに普遍的な正義(大義)に正当性をもとめたり、あるいは愛国心とよばれる正体不明の感情にひたすら媚びたりし、なんとかその決断を支えようとする。けれど今回イラクに兵すなわち自衛隊を送る決定を行なうのに日本政府は、このような正当化を必要としなかった。というよりも、もし普遍的な正義や、愛国心にもとづけようとすればすぐに破綻し、かえってイラクに兵を送る決断は断念せざるを得なかっただろう。

 三月にアメリカによって始められたイラクへの戦争は、

 一、 大量破壊兵器をイラクが持っている。
 二、 独裁者フセイン(何をしでかすかわからないエビル!)政府が民衆を抑圧している。

この二つの仮説の連結で正当化された。つまりゆえに三、この恐るべき独裁者が大量破壊兵器をもちいて、いつ世界に破局をもたらすとも限らないと。

 けれど戦争を正当化するために、こうした論理が必要だったのは、あくまでも英米の二国においてであって、日本においてでなかったことは、はっきりしている。

 戦争を支持するにあたって日本の総理大臣は、はじめ国連の判断に従うと言い、そして国連の決議をアメリカが無視した途端、アメリカに従うとすぐ言い換えた。その理由を問われても総理大臣は状況を見ての判断という以外の説明はできず、つまりは自らの判断を支える基準も根拠も示すことはなく、結局のところ、同盟国アメリカが危険だというのだから、たとえ証拠が見つかっていなくても、その可能性を認めるのが同盟国としてのつとめだという説明に帰着する。「同盟国のいうことを信じなくて同盟国の信頼が得られますか?」と言うのである。

 国民はこの説明で納得してしまったのだろうか。これは「私が正しいというのだから正しい」と言うのと同じ論理だが、その自己撞着(「小泉が正しいというのだから正しい」)が通るはずのないことを、どんなに人気があると自負する小泉首相であれ知っているだろう。民主主義では信頼はあくまでも選挙によって確かめられることになっているからである。

 だが「アメリカが正しいというから正しい」と言い換えると、なぜそれが通るのか。それはアメリカの大統領に対する選挙権を日本国民が持たないからではなく(それもあるが)、小泉自身がいった「同盟国の信頼を失って、日本が他国から攻撃されたとき誰が守ってくれますか」という台詞でのみ支えられる。これは「同盟国アメリカの信頼を失えば、日本は他国Xから攻撃される」の言い換えであり、「攻撃されてもいいのか」という国民に対する脅迫と同じである。他国Xはアメリカ以外の国(たとえば北朝鮮)を表向き指しているようだが、その攻撃が「アメリカからの信頼を失えば」という条件に接続されている以上、攻撃はアメリカの主体的決定に関わっている。すなわち攻撃か否かの主体はアメリカであり、「アメリカを裏切れば攻撃される」と同意だということである。そしてその同盟国アメリカは取り替え不能である。これは戦争に擁護するための説得でもなく、その正当化でもない。恐怖を後ろ楯にした強制である。けれど国民はいつものように、この脅迫を表向き受け入れてしまったようにみえる。治癒することのない慢性的な歯痛を抱える患者が痛みをやりすごし、なんとか日常生活をつづけていくように。

 そして六ヶ月がすぎ、大量破壊兵器は見つからなかった。またイラクを解放すれば歓迎されると喧伝されていたアメリカの軍隊をイラクの民衆は決して歓迎しなかった。アメリカが武力で行っている占領統制はフセインが行っていたといわれた圧制よりもましであるとは到底いえる状態ではなく、混乱は広がり、アメリカ占領後の死者はもはや戦争中の死者を上回り、その駐留に正当な理由づけを失ったアメリカの兵士たちの志気は著しく低下し、自殺者が増大しているという。

 アメリカは自ら仕掛けた戦争が終結不能の泥沼に入りこんでしまったことをいやおうなく認識しはじめている。

 「大量破壊兵器の存在」「イラク民衆はフセインの圧制から解放されることを望んでいる」という根拠に絶対的確信があるかのように国民を説得してきたアメリカそしてイギリスの戦争遂行の当事国でさえ、この戦争に正当性があったと国民に対して言い切れなくなっている。それを強行に遂行した首相は、その信用と地位を失う危機にさえ直面している。

 だが日本では、同じくこの戦争を支持した政府と首相がこのことを理由に危機に瀕しているという気配はない。なぜならば、歯痛のような脅迫はまだ生きているからである。 それどころか、とうとう今度はすでにまったく根拠も正当性も失った、この戦争に、日本はついに兵を送るというのだ。

 もはや自分たちが行った選択が過っていたことを半ば公式に認めはじめたアメリカには、もうこの無根拠な戦争を遂行しつづける国民の支持も体力もない。問題はこの過った選択のために自国が抱え込んでしまった負担をいかに軽減するか、誰に肩代わりさせるか。復興課題はもはやイラクではなく、自国アメリカ自体の復興に移行している。そしてブッシュは来日した。自らが犯した愚かな過ちの肩代わりを、予算においても兵力においても、少しでも多く受け持たせるために。

2.
   当事国であるアメリカ、イギリスですら失ったのだから、兵を送り、そして多額の資金を援助する日本にその行為をいまさら正当化するまともな理由は存在しない。普遍的な正義はもちろん、かなり偏執的な愛国心であっても、今回のイラク派兵を正当化することはありえない。平和のためでも、もちろん日本を愛するゆえでもない。

 兵の姿をしているが、彼らは水を運びにいくのであり、資金を援助するのはイラク復興に役立てるためだという弁明がある。

 しかし当時国であるイラクの民衆に求められて自衛隊が派遣されるのではない。復興援助するための資金であればその使途をきちんと明示するべきだが、援助を求めたのはアメリカであって、そもそもイラクに徹底的な破壊を行ない復興を必要とする状態にしたのはアメリカであって、その予測を超えた破局を押さえきれず(復興を担いきれず)危機的になっているのもアメリカであった。日本が資金を供出する相手、援助する相手はアメリカであってイラクではない。イラク復興を支援するというのであれば、なぜこのようにイラクの国土が破壊されなければならなかったのか、その正当性が問われなければならないだろう。

 そして、このような抜き差しならぬ状況にアメリカやイギリスがはまり込んでしまったのか、その責任が問いなおさなければならない。復興というのであればその原因を問う分析が必要である。不可抗力の自然現象である地震がなぜ起こったのかは問うくせに、責任能力がある人間が行った行為を問おうとしないで許容してしまう不可解さ。

 今回、自衛隊員は、たとえば水を運ぶ目的のために、わざわざ攻撃を誘うような挑発的で危険な格好(軍服を着用させられ武器を携えた)をさせられ、イラクに送られる。そしてこうした挑発的な兵士の姿であるゆえに自衛隊員が、万一、そこで死ぬようなことがあったら、ましてやそこで彼らが民衆を殺す(彼らはイラクの民衆が暴動しはじめたとき、アメリカ軍がそうしたように民衆に銃口を向け発砲するのだろうか)ことになったとしたら、彼らはいったい何のために死に、殺すことになるのだろう。

 戦争をはじめた当時国ですら正当な理由を喪失した今、たかだか、アメリカと日本という国家間の友好のため、つまりは義理で殺し、殺されるという他はないだろう。

 彼らは(金銭の援助だけでは、友好国の努めを果たしていると認められないという気づかいゆえに、つまりは友好国への義理とへつらいで)血と自らの生命を賭けることを、(特攻隊に対して特別な哀惜を感じるという)小泉首相ひきいる日本国家に命ぜられて、イラクへ行くのである。このような無意味な危険(死)を平然と命ずる(特攻隊ですら、死ぬに価する理由を与えられていた)政府に対して、またしても国民は黙って従うのだろうか。いまや金だけでなく生命をも寸志として包むことを厭わない儀礼国家に対する、なんたる忠誠?

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