2003.03.10 RAM LAB(岡崎乾二郎・田口卓臣)

岡崎乾二郎「でもの哲学」

1.
 テレビ画面の現象に、トラッキングというものがある。
 画面の同期が乱れ始めるとこの現象が起こる。時間軸の方向を失った映像がスライスされたように画面上を垂直に流れ落ちていく。映像が静止したプラカードのようになって画面を横切っていく。
 たしかにテレビジョンは、この時、送られてくる電波信号との同期性を失っている。けれどそのことによって、テレビはブラウン管内の映像と――そのテレビ自身が一つの客体として世界に(君たちの部屋に)存在する――そのテレビ自身の客体性とを一致させようとしているともみえる。そのとき映像は テレビの中からそのテレビが置かれた実際の空間に、まさに一つの客体として流れ落ちてくる。
 テレビのまばたき、あるいはテレビのあくび、それはひとつの合図である。テレビと私たちはオブジェクティブに、同じ世界の中にある互いに対等の客体として出会う。ゆえに次の瞬間、テレビを見る私たちも、散漫なあくびをしている。あくびはこうして伝播していく――電波による統御を必要としない同期性。
 世界は 決して 一つではない、その同期しえない 無数の 流れ、運動が、だが確実に同期しうる一点 が存在する。
 人間は たとえ一人であっても決して、一人ではない。 
 身体は無数の異なる器官の束であって、足の小指が感じていることを肝臓は知らず、拷問で耳がそぎ落とされている最中でも、胃腸は平然と空腹をうったえ『グー』と不平の声をあげる。欲望は知性と無関係であり、考える葦である人間はオナラをしながら、パスカルを読んでいる。トラッキングが乱れたテレビ画像同様に、私たちの身体はアレルギーを起こす。身体が複数に分裂し(散漫に)、勝手な暴走をはじめるのはほとんどの病気の常である。
 病気は一人の身体から、別の身体へも伝染するし、ゆえに あくび もまた伝染する。
 私たちは知っている。
 真に信用に値いする認識は 固有の主体――身体には帰属しない。
 
 こうした認識の獲得は、身体が誰のものでもなくなり(統制――同期を失い)、それぞれの身体から、ばらばらに流れだす――そのとき身体の諸部分が帰属を離れた自律性を獲得する――事態と正確に対応する。すなわち脳もまた身体であって、信頼に値する知とは、その脳が誰のものでもなくなり(主体的ないかなる統制、位置づけ――利害関係――からも離れ)、自動計算をはじめたときに得られるのだ。
 真の認識は主体的ないかなる実感からも離れていなければならない。
 わたしはサクラの花が嫌いだが、かといって、それらの木を切り倒すべきではなく、また、ゆえにわたしはある女性をとても好きだが、ときには(あるいは一生)その告白を我慢しなければならない(恋愛を主体的に統御しようというのはそれこそ近代的な倒錯である)。
 倫理的であるとは、このように、外部化された認識(自分の予想を超えて自分の脳が引きだした答え)に忠実であることだ。それは、私たちの実感(中枢的な感覚)が切断されたときにだけ、得られうる至高の経験としてある。

2.
 ところで 技術と呼ばれるものは 身体の統御をひとまず解体し、それを再編しなおすことによって習得される。
 
 職人の誰もが知っているように、手や足がそれぞれ独自の判断で自律的に動きだしてしまうようにならなければ、信頼に足る技術を習得したとはいえない。バスの運転やレストランの料理が、運転士やコックの精神状態 あるいは家庭の事情に影響されていたとしたら、なんと恐ろしいことか。すぐれた職人は、たとえ心の中で不埒な事柄を思い描いていようと、その手 や足は勝手に、そして正確に動き、ほとんど自動的にまったく清らかな宗教画を仕上げてしまったりする。フラ・アンジェリコのすばらしさは、彼がそういう手を 持ってしまったところにあるのであって、決して彼の人格の純粋さによるものではない。それはフィリッポ・リッピのことを考えればもっとよくわかる。そもそも、天使的なものとは固定した人格から外へと無制限に(おしみなく)流出していくもののことを言う。
猥談を話しながら、作曲したモーツァルトを思い出せ。

3.
 ここで、ようやく『でも』の哲学に私たちは たどりつく。
 『でも』、それは主体が唐突にその主体を放棄する瞬間である。死刑台に行く途中ですら、その瞬間は訪れる。明日の晩にチョコレートを食べよう。死の寸前に胃がそんなことを考え、うきうきしはじめる。この肝心なときに。
 しかし肝心な事柄とは所詮善悪の判断の範疇にあるにすぎなかった。死刑台に行く途上で、胃が思うチョコレートこそが真実の対象である。自分がそれを食べるわけではないがゆえに。でも、胃とともにわれわれの気分までわくわくしはじめるのはなぜか。真の認識を目指す者に善悪といった基準はおおよそ信頼しえない。それらは目的によって統御された主体的、つまりは対他的な認識であるゆえに、必然的に限界を持つ。それはついに普遍的な知に到達しえない。善悪を万人のものとして正当化することはひたすら転倒している。
 『でも』はこの中枢的な欺瞞に、疑問をつきつける(かすかな高揚とともに)。いかなる危機も、その危機を根拠として確保される正当性も このとき、一挙に解体される。『でも』という至高の切断――忘却によって。
  
 善悪という中枢的な判断が解体されるとき、すなわち
 私たちが日常、道を歩いていて、ふと自分が誰であるか、わからなくなるとき、
 自分の鼻 が 花の匂いに同調して、思わず電信柱にぶつかってしまうとき、
 『でも』 は確実にそこにある。自分の生死を忘れて、花の匂いに酔えるなら、
 とりあえずそれを 美的判断 として認めてもいいだろう。
 無数の異なる運動が同期しえるのは この瞬間だけであり、ただここがチャンスである。
 正しい知識は、よい香りを持つ。そしてかならず伝播する。
 世界はこんな風に組み替えられる。

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