2003.06.02 倉数茂

「九条の会」発足記念講演会
 
 7月24日、憲法第九条の改訂に抵抗するという趣旨で始まった「九条の会」の発足記念講演会が行われた。(「九条の会」については下記のURL参 照。)会場となったホテルオークラには1000人近い聴衆が訪れ、せわしげにフラッシュを焚く報道各社の姿も見受けられた。カメラが狙っていたのは、会場に来られなかった梅原猛氏をのぞく8人の呼びかけ人、すなわち井上ひさし、大江健三郎、奥平康弘、小田実、加藤周一、澤地久枝、鶴見俊輔、三木睦子の各氏である。その後、一人あたり20分ほどの呼びかけ人による短い挨拶・講演が行われた。以下、簡単にそれぞれの内容に触れていきたい。

 最初に壇上に立った井上ひさし氏が述べたのは、吉野作造についてだった。井上氏は、仙台高等学校時代、同校の先輩でもある吉野作造の著作を愛読したらしい。そしてあるひとつの原理を叩き込まれたという。それは法律が国家からの国民への「命令」であるなら、憲法は国民から国家への「命令」であるというものだった。そして法律と憲法では、つねに憲法が優越する。むろんこれは、近代憲法学の基本概念であるに違いない。しかし「憲法改正」のかけ声ばかりが高まるなかで、この常識がどれほど共有されているだろうか。

 つづいて挨拶を行った三木睦子氏は、今は亡き夫君(三木武夫)に「どうしてあなたは自民党にいるのよ」といったというエピソードなどを交えて聴衆をわかせながら、国民を守るためにあるはずの自衛隊が、なぜ武器を持って異国の地にいるのか、と問うた。平和活動のためにいるというならば、武器をおいていけばいい、という言葉には会場から大きな拍手が寄せられた。

 大江健三郎氏が問題としたのは、憲法とその翌年に公布された教育基本法の両者に共通する「文体」だった。彼は、「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」という条文と、「われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない」という文章の双方に、ともに「希求」という決して一般的ではない言葉が使われていることに着目し、ここに共通した「文体」が、すなわち同一の精神が表れているという。そして終戦以降自分は、市民として、父親として、この「文体」をずっと支えとしてきた、と述べた。

 奥平康弘氏は、憲法学の泰斗としての見地から、九条に見られる戦争放棄の思想が、憲法の他の部分、基本的人権の尊重や国民主権、表現の自由といった他の思想(条文)と深い関わりを持っているのだと主張する。それらは相互にかかわり合い、憲法という単一のシステムを形成している。ゆえに、九条のみをとりだして単独で改訂するなどということはできない。その上で憲法を日本の内部でのみ保守するのではなく、その普遍性とアクチュアリティを国際環境へ打ち出していく戦略の必要性を語った。

 九条の普遍性という観点は、小田実氏とも共通する。小田氏もまた憲法がアメリカ主導で制定されたことを認めた上で、そこにはむしろ米国一国にとどまらない人類的な普遍性が含まれているという。彼は自分の被災体験をからめつつ、太平洋戦争末期の一方的な殺しー殺される、という関係のなかで、殺すものすら、深刻な苦痛を抱えるようになっていたと指摘する。彼が挙げるのは、東京や大阪を焼き払った低空無差別爆撃機のパイロットたちが、眼下で人が焼けていく臭いをかがざるを得なかったというエピソードである。戦争放棄条項には、殺されたもののみならず、殺したものの痛苦と悔恨も込められている。それは勝者、敗者の別に関わらず、第二次大戦で疲弊した世界の普遍的な願いであった。

 一方加藤周一氏の、九条が改訂されることによって、日本の社会と国際環境がどのように変化するかをシミュレートしてみるべきだという提言は、日本の護憲運動の現場に、長期的な視野と冷静な議論を導入しようという意図において、きわめてシャープなものだったと思う。彼が挙げた論点は三つ。第一に、日本の産業構造においても、米国同様、軍産複合体が大きな地歩を占めるようになるだろうこと。第二に、積極的に軍事作戦を展開するようになれば、当然徴兵制が取り沙汰されるであろうこと(彼は直接触れなかったが、少子化を考えればこれはうなずける)。最後に、日米軍事同盟の強化の結果、むしろ日本の外交的選択肢はせばまることであった。

 つづいて、心臓にペースメーカーを埋め込んで三日前に退院したばかりだという澤地久枝氏。彼女は、ミッドウェー海戦に参加した兵士たちの生い立ちを調査したことがあるらしい。そこで知ったのは、大恐慌下で育ち、軍隊に志願した青年たちの軌跡が、日米で瓜二つといいたいくらいに似ていることだった。ただし日米には大きな違いがある。ある米人青年は、まだ生まれぬ子を遺してミッドウェーに散ったが、二十数年後、今度はその子供がベトナムで死ぬことになった。日本は戦後六十年、ただ一人の戦死者も、日本の軍隊の犠牲者も出していない。この違いを守らなければと彼女は言う。

 最後に鶴見俊輔氏が述べたのは、自らの戦争体験にまつわる思い出だった。太平洋戦争末期、当時軍属として南方にあった鶴見氏の部隊で、捕虜の処遇を巡ってひとつの決定がなされた。それは、貴重な医薬品を節約するために、病気になった捕虜を毒殺する、というものだった。その執行命令が、当時鶴見氏と同室であったある軍属に命じられた。捕虜は毒薬でも死なず、とどめを刺すためにその者は拳銃で捕虜を射殺しなければならなかった。その殺害指令が、自分ではなく同室の人間に下ったのは偶然に過ぎないと鶴見氏はいう。現実には、自分は人を殺すことなく戦争をくぐり抜けることができた。しかし可能性のレベルでは、自分は人を殺していた。この経験から、鶴見氏は戦後決して人を殺すまいと誓ったという。「自分は人を殺した/自分は人を殺さない」この矛盾した命題をひとつのものとして生きることが、私の哲学の根本にある、と鶴見氏は語った。

 印象深かったのは、彼ら/彼女らの個性である。新たな講演者が登壇するたびに、会場には、それまでとはちがう新たな気配と緊張の波が静かに広がるのだった。呼びかけ人たちは、それぞれ異なるスタイル、口調、認識を持っており、述べる内容も一様ではなかった。それはまるで一幕ごとに舞台ががらりとかわる芝居のようだった。政治的集会の類いで何よりも退屈なのは、次々に登場する人間が同じスローガン、同じ志向を判で押したようにくりかえすことである。この日ほど、それから程遠かったのものはない。にもかかわらず、やはり呼びかけ人たちはひとつの一貫した物語を語っていた。戦後史とは何だったのかという物語を。

 呼びかけ人たちは1917年から35年のあいだに生まれている。もっとも若い大江氏ですら、すでに七十になろうとしている。その大江氏は、自分の死を意識するとき人は倫理について考える、という意味のことをいっていた。彼ら/彼女らが自分の死を意識しているのは確かだろう。もしも日本が戦争に踏み込むのだとすれば、実際に苦しむのはより後続の世代であるに違いない。

 私にとってこの日は、くらくらするような体験だった。「戦後史」が文字通り目の前にあると興奮した。加藤周一、鶴見俊輔、大江健三郎といった名前は、これまで書物を通して出会うものだった。もちろん彼らが同時代人だと思っていなかったわけではない。愛読していたのは、そこにヴィヴィッドなアクチュアリティが感じられたからだ。けれどもそれは単に長く仕事をつづけている著作家というのとは違う。それらは、六十年の歴史をふりかえるとき必ず浮き出してくる、いわば歴史に刻みこまれた名前だったのだ。そうした人々が一堂に会したのは、まさに今歴史が総括され、大きな転換点を迎えようとしている証示にほかならない。

 だが私たちはこの転換点を、あえて希望をもってくぐり抜けたいと思う。加藤氏が述べていたように、むろん見通しが明るいはずはない。ヴァルター・ベンヤミンの言葉を思い出す。彼はその遺稿のなかで、新しい世代はかつての世代と「ひそかな約束」を交わしてこの地上に生まれてくるのだ、と書いている。

「ぼくらには、ぼくらに先行したあらゆる世代にひとしく、〈かすか〉ながらもメシア的な能力が付与されているが、過去はこの能力に期待している。」この「ひそかな約束」が、私たちの前に届けられたのだ。

「九条の会」公式ホームページ
http://www.9-jo.jp/

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