2004.04.09. RAM LAB(田口卓臣 編) | |||||||||
宮沢俊義 『憲法講話』第I章「表現の自由をめぐって」、第X章「軍の死と復活」 |
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Toshiyoshi Miyazawa 岩波新書、第一刷1967年 |
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【概要】 |
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憲法学者 宮沢俊義は『憲法講話』の中で、戦前の明治憲法と戦後の日本国憲法とを、様々な視点から比較している。ここでは二つの章に注目しよう。 まず「表現の自由」について。宮沢によれば、日本においてそれが保障されたのは、戦後になってからである。日本国憲法は、個人の「表現の自由」を基本的人権とみなし、いかなる法律もこれを制限してはならないと明記した。言い換えれば、憲法は国家に対して「表現の自由」を守ることを命令しているのだ。 宮沢は言う。「表現の自由」とは、何よりも個人が、自分の意見を外に表明する自由のことである、と。それは「言論の自由」「出版の自由」を包摂する。注意すべきは、これらの自由がどのような場合に保障されなければならないか、という点である。例えば、支配的意見に対する盲従や賛成は、少なくともその意見が支配的である間は、制限される恐れのないものである。つまり「発表を制限されることのないような意見については、特に表現の自由を持ち出す必要はない」。日本国憲法が積極的に守ろうとしているのは、むしろ権威の座にある者たちにとって気に喰わない意見を発表する自由である(「権威を批判する自由」)。対して、明治憲法ではこうした意味での「自由」は認められていなかった。例えば天皇という権威を批判すれば、「不敬罪」として処罰された。 宮沢はまた別の観点から指摘する。「表現の自由を保障するに際しては、つねに、それに関わりを持つ他人の人権をも保障することを忘れてはいけない」。人権はすべての人間に対して、人種・性別・地位・職業に関係なく、平等に保障されるべきものであり、特定の個人が他人の犠牲において尊重されてはならないからだ。多くの人の人権相互間に何らかの矛盾・衝突が起こった時には、彼ら全てに公平に人権を保障するという原理に基づいて、最低限度の調整がなされる必要がある(注)。 次に「軍の死と復活」について。戦前の明治憲法は、天皇を軍隊の最高指揮官として位置づけていた(「統帥大権」)。そして「統帥大権」は「国務大権」とは異なり、政府の助言と責任の枠外にあった。ところが天皇が軍の指揮を取ることは、実際には可能でもなければ適当でもなかったので、「統帥大権」の助言者である軍部が、実質的決定権を独占する状態になった。かくして軍部が独走を始めると、政府はもはやそれを制御できなくなってしまったのだ、と宮沢は分析する。 戦前の軍隊の「戦陣訓」(1941年)では、「日本軍は負けない」「日本軍人は捕虜になるな」「瓦全よりは玉砕を」と教えられた。しかし現実には、日本軍は降伏し、多くの軍人が捕虜となり、玉砕するよりは我が身の安全を選んで無事に帰国した。「そうした生きていた兵隊を、国民は心から祝福した」。特攻隊を作らせた指導者の大部分も、いざ降伏となった時には、玉砕よりも瓦全を選んだのである。こうした状況の中、「皇軍」が滅び、天皇が「大元帥」たることを止め、そして日本国憲法第九条が誕生する。終戦直後、貴族院議員だった宮沢は、第九条が、平和を欲していた国民によってすんなり受け入れられた、と証言する。 しかし1950年、朝鮮戦争が起こると、アメリカからの強力なプレッシャーを受けて、日本政府は再武装へと邁進し始める。鳩山内閣は、終戦直後には誰の目にも明らかだった第九条のメッセージを意図的に捻じ曲げ、「自衛戦争のためなら軍隊は設置してよい」という解釈を打ち上げた(「憲法改正」の手続きは実質的に飛び越えられた)。宮沢は確認する。第九条の真髄は、「軍隊の撤廃」を明記した点にある。どれだけ戦争の放棄を明言したところで、軍隊があれば、戦争が起こる可能性はある。じっさい第二次世界大戦は不戦条約を交わしていた国家の間で引き起こされたのだ。 宮沢が35年前に発した以下の警告を重く受け止めたい。憲法は、「国民」ないし「選挙民」の「不断の努力」によって守られなければならない、と彼は力説する。憲法(の精神)こそが、国家の暴力・戦争の暴力から、国民ひとりひとりを守るための礎だからだ。政府主導の既成事実だけが垂れ流される現状にあって、彼の発言は古びるどころか、却って輝きの強度を増している。 |
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【抜粋1】 |
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「憲法は、その保障する人権は、「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」だという(第97条)。また、「国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない」ともいう(第12条)。人権は、それを得るために、そして、それを守るために「不断の努力」を惜しまない国民にのみ、現実に保障される。憲法の規定がどのように立派にできていても、表現の自由の価値を知らず、そのための「不断の努力」を怠る国民にとっては、憲法の条文は「白い紙の上に書かれた黒い文字」にとどまるだろう。 憲法の保障する人権は、「過去幾多の試練に堪えた」ものだ、という(第97条)。表現の自由は、現在それが日本の社会で経験しつつある「試練」に無事に堪え抜くだろうか。」(第I章) |
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【抜粋2】 |
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「科学者京都会議は、その第一回会議(1962年)の声明で、「核戦争による人類破滅の危機が増大しつつある折から、戦争がもはや国際間の諸問題を解決する手段となりえない」こと、および「日本国憲法第九条が制定当時にもまして大きな意義を持つにいたった」ことを確認した。また、その第三回会議(1966年)の声明は、「国家の安全を『力の均衡』によって保障しようとする考えは、必然的に無制限の軍備競争をひきおこし、従って、平和をうち立てることを不可能」にすること、および「永続する平和を創り出し、新しい世界秩序をうち立てるためには、諸国家の利益や価値体系の共通点をみいだし、その増大を目指すという相互信頼の立場に立つことが不可欠」であること、しかも、それが「単なる理想論ではなく、現実的な根拠をもつ」ことを指摘し、次のように、述べている。「この意味において、『平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した』と述べている日本国憲法前文は、高度の合理性と政治的英知を内包している。 [中略] ナチがドイツで、いわゆる「国民革命」によって、政権をとったとき、ワイマール憲法は引きつづき生きているかどうか、が問題になったことがある。ナチ政権は、有名な「授権法」を議会に制定させたほか、とくにワイマール憲法の条文を改正する手続きをとらなかった。しかし、条文がそのまま残されたとしても、ワイマール憲法がそこでまだ生きているとは、だれも思わなかった。 もし第九条に関する現在の政府の解釈を国会が承認し、さらに、裁判所が支持するとすれば、その解釈はそこで公権的なものとして確定する。そうなれば、たとえその解釈を不当だとする「学説」がいかに多くあっても、憲法の具体的な意味は、そこで確定した公権解釈で示されたところにほかならないことになろう。少なくとも、生きている憲法、すなわち、現実に行われている実定憲法は、それ以外にはないと言わざるを得なくなってしまうだろう。 第九条がワイマール憲法の二の舞を演じないという保障は、どこにもない。国民が国会や政府や、さらに裁判所に対してすら、直接または間接のコントロールを持っているはずの国民主権の下において、第九条にワイマール憲法の轍をふませるかどうかは、つまるところ、国民、ことに選挙民の決意ひとつで決まることである。」(第X章) |
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【注】 日本のマスコミは、個人のプライヴァシーを侵害するような過剰報道をしておきながら、それが「表現の自由」であると強弁する傾向にある。履き違えも甚だしい。プライヴァシーを侵害するメディアの権益を守るために威勢良く論陣を張るような物書きたちは、全て二流以下であり信用するに値しない。彼らのように、憲法の原理に関わる基本タームを初歩的なレベルで誤用していては、真に「表現の自由」が守られねばならないような局面で、それを訴える真剣な言論が十分に機能しなくなる危険性がある。 |
【参考】 WIKIPEDIAの記述「宮沢俊義」 |
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E6%B2%A2%E4%BF%8A%E7%BE%A9 宮沢俊義『憲法II』第三章 第三節「抵抗権」について http://www.eris.ais.ne.jp/~fralippo/demo/review/MZT031228_resistance/ 【参考文献】 宮沢俊義編『世界憲法集』岩波文庫、1960年(第四版・第一刷1983年) |
宮沢俊義『憲法講話』岩波新書、1967年 宮沢俊義『憲法入門』勁草書房、1973年 宮沢俊義・国分一太郎『わたくしたちの憲法』有斐閣新書、1987年
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