2003.12.28. RAM LAB(矢崎衣良・田口卓臣 編) | ||
宮沢俊義 『憲法II』第三章 第三節「抵抗権」 |
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Toshiyoshi Miyazaya 有斐閣、初版1959年 |
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【概要】 |
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憲法学者 宮沢俊義によれば、「抵抗権」は、人権宣言において保障される人権のひとつであるが、他の人権とは異なる点を持っている。なぜならそれは、人権を侵害する公権力に対して(実定法の根拠を持たずに)抵抗する権利のことだからである。より厳密に言えば、「抵抗権」とは、合法的に成立している法律上の義務を、それ以外の何らかの義務(良心、道徳)を根拠として否認することに関わっている。たとえば「悪い法律は守らなくてもいい」「ニュース・ソースを明らかにすることを義務づける法律は、守るべきではない」といった主張や、良心的反対による兵役の拒否などがそれにあたる。 「抵抗権」に注目すべき理由のひとつとして、第二次大戦中のドイツや日本の政府権力の暴走(言論の弾圧を含む)に対する歴史的反省が挙げられる。「抵抗権」とは何よりも、権力の行使に課された憲法的な限界(枠)を、公権力に守らせるための保障手段のひとつなのだ。(宮沢は、ほかの保障手段として「法律の合憲性審査」を挙げるビュルドオの思想を紹介している。) 宮沢は、以上の基本前提を踏まえたうえで、長い「抵抗権」思想の歴史をふり返りながら次のように議論を進める。「抵抗権」とは、法律の義務と良心の義務とが衝突した場合に、後者により大きな価値をみとめ、後者をよりどころとして、前者に服従することを拒否する権利である。したがって、それは実定法に根拠をもつものではない。もし「権利」という言葉が実定法上の権利のみを意味するならば、「抵抗権」はそもそも「権利」と呼ばれえない。それは実定法秩序とは別の秩序、すなわち「自然法」に基づくものである、と。 しかし、その「自然法」の内容を実定法化・制度化することは極めて難しい。また「抵抗権」の乱用から引き起こされる実際的な危険も無視できない。「実定法に優越するとされる自然法とは何か、それはどんな内容をもつものか、『人間による人間の圧制』が存することを具体的な場合にだれが認定するのか、というような点について客観的に明白な基準を見出すことは、ついに、断念しなくてはならないもののようである。」その意味で、「抵抗権」の問題は、最終的には、各個人が具体的なケースに応じて解決するよりしかたがないものである、と宮沢は結論する。 政府権力の暴走、それによる人権侵害は決して過去のものではない。それはアメリカがアフガニスタン攻撃やイラク攻撃に踏み切ったプロセスを見れば明白である。そしてその危険性は日本にも現れている。こうした状況のなかで改めて「抵抗権」の考えかたに注目することは意義深い。それは常に権力によって侵されがちだった個人の人権を担保しようとする性格を持っているからだ。 |
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【抜粋】 |
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「抵抗権の援用は、したがって、援用者による最大の責任の自覚を伴わなくてはならない。抵抗権を主張する者は、全人格をもってそれについての責任を負う覚悟を有することが要請される。そうした覚悟なしに、軽々しく抵抗権をもち出すのは、無責任なエゴイズム以外の何ものでもないこと、そして、そうした無責任なエゴイズムのもたらすものは、救いがたいアナアキイ以外の何ものでもないことを知るべきである。 [中略] 個人の尊厳から出発するかぎり、どうしても抵抗権をみとめないわけにはいかない。抵抗権をみとめないことは、国家権力に対する絶対的服従を求めることであり、奴隷の人民を作ろうとすることである。 」 |
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【参考文献】 |
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宮沢俊義『憲法講話』岩波新書、1967年 宮沢俊義・国分一太郎『わたくしたちの憲法』有斐閣新書、1987年 |
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