2004.01.20. RAM LAB(田口卓臣 編)

長谷部恭男
『憲法』5.2.3.「切り札としての人権」
    Constitutional Law
Yasuo Hasebe
新世社、1996年

【概要】
憲法学者 長谷部恭男は、日本国憲法の前文および第九条に関連して「平和的生存権」という考え方を紹介している。この考え方によれば、憲法の根本にある平和主義は、単に「日本は戦争に関わらない」と宣言しているのではなく、「平和に暮らしたいと考える者ひとりひとりの権利を守らねばならない」とも明記しているのである。「戦争の放棄」と「人権」とは、切っても切り離すことのできない概念である。

続いて長谷部は、この「平和的生存権」をめぐって、「切り札としての権利」(ロナルド・ドゥオーキン)という概念を紹介しながら展開する。この思想が重要な意味を持つのは、社会の常識や通念に賛成しないひとが出てくるケースにおいて、である。「公共の福祉のため」あるいは「国民の安全のため」(日本政府や最高裁判所が好んで使う言葉)といった理由をもってしても、侵害することができないものが「切り札としての権利」なのである。日本国憲法は、日本政府に対して、この「切り札としての権利」を守ることを命令しているのだ。

冷静な議論を経ない形で改憲論が先走りする現状にあって、長谷部の指摘は重要な意義を持つ。なぜなら平和主義を明記する憲法第九条が変更されれば、当然の結果として、平和をのぞむ個人の生活にも深刻な影響が及ぶことになるからだ。自衛隊への協力を要請する有事法制(昨年成立)のロジックを、演繹的に突き進めるならば、その最終的な解として「国民皆兵」が待ち受けていることも念頭に置いておかねばならない。

【抜粋】
「もし人権保障の根拠が、[中略]結局は社会全体の利益に還元されてしまうのであれば、公共の福祉とは独立に、人権とは何かを考える意味はほとんどない。自らの人生の価値が、社会公共の利益と完全に融合し、同一化している例外的な人を除いて、多くのひとにとって、人生の意味は、各自がそれぞれの人生を自ら構想し、選択し、それを自ら生きることによってはじめて与えられる。その場合、公共の福祉には還元されえない部分を、憲法による権利保障に見る必要がある。少なくとも、一定の事項については、たとえ公共の福祉に反する場合においても、個人に自律的な決定権を人権の行使として保障すべきである。いいかえれば、人権に、公共の福祉という根拠に基づく国家の権威要求をくつがえす「切り札」としての意義を認めるべきである。

[中略]

個人の自律に基づく「切り札」としての権利は、個々人の具体的な行動の自由を直接に保障するよりはむしろ、特定の理由に基づいて政府が行動すること自体を禁止するものと考えられる。

[中略]

個人の人格の根源的な平等性[多数者の意思に反してでも保障される平等性]は、憲法の定める民主的政治過程の根本にあるはずの原理である。あらゆる個人を自律的かつ理性的にその人生を選択できる存在だとする前提があってこそ、理性的な討議と民主的決定を通じて、社会全体の公益を発見しようとする考え方が生まれる。また、この同じ前提は、そもそも個人を単なる強制や威嚇や操作の対象としてではなく、理性的な対話の相手として考えるための必須の条件でもある。多数決による決定だからという理由で、この個人の自律的な決定権を否定するならば、民主政治の前提自体が掘り崩されることになる。」

【参考文献】
長谷部恭男『権力への懐疑――憲法学のメタ理論』日本評論社、1991年
ロナルド・ドゥオーキン『権利論』木下毅=小林公=野坂泰司訳、木鐸社、1986年

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