2004.01.25. RAM LAB(田口卓臣 編)

樋口陽一
『憲法』第一部 第三章 第二節「平和主義の原理」
    Constitutional Law
Yoichi Higuchi
創文社、1992年

【概要】
憲法学者 樋口陽一の『憲法』は、長谷部恭男(「Review 2004.01.20.」で紹介)が最も強く意識した労作である。本書の「平和主義の原理」という節は、他の項目同様、平易に書かれてはいるが、問題状況を凝縮して提示している点で、今でも熟読に値する。

樋口の論点は、大きく分けて二つある。第一に、近代的な憲法原理の系譜のなかで日本国憲法がどのような位置を占めるのか。基本的な歴史認識を踏まえずに、憲法について独自の見解を披露しても不毛である。第二に、第九条に書かれた「戦争放棄」の意味をどのように解釈するのか。条文の精読を通して、戦後の日本政府が積み重ねてきた「解釈改憲」の歴史が批判される。

樋口は「権力をコントロールする」という立憲主義の核心について再確認するところから説き起こす。なかでも「権力の端的なあらわれである戦争・軍事力をどう制約するかという関心は、王権を制約することとならんで、市民革命以来の立憲主義憲法にとって最大の関心事のひとつであった」。軍事力への国民の側からのコントロール、軍の政治介入の禁止、侵略戦争の放棄といった考え方は、付け焼刃として考案されたのではなく、長い歴史的経験を通して得られた基本的な認識である。日本国憲法は、この世界憲法史の流れに連なるものであり、突然変異的な存在なのではない。樋口はふんだんな具体例を挙げながらこの事実を証明する(1689年イギリス権利章典、1791年アメリカ合衆国憲法、1791年フランス憲法、1848年フランス憲法、1891年ブラジル憲法、1931年スペイン憲法、1946年フランス憲法前文、1947年イタリア憲法第十一条、1949年ドイツ連邦共和国基本法第二十六条、国際連合憲章第二条)。ただし日本国憲法は、こうした世界的な流れに見られる基本認識を受け継いだだけでなく、さらに一歩先へと推し進め、「戦力の否認」を明記した点で、特異な存在である。

樋口は次に「戦争と、武力による威嚇又は武力の行使」(第九条)をめぐる解釈の問題について言及する。第二次大戦後の日本政府は、九条一項のみを拡大解釈するあまり、二項を含む条文全体の意味を軽視してきた。なるほど九条一項(「国際紛争を解決する手段としては、これを永久に放棄する」)だけであれば、戦力の「限定放棄説」はある程度の説得力を持つかに見える。しかしそれも二項(「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」)とセットにして読めば、誤解の余地はありえない。憲法第九条は、戦力の「全面放棄」を明記しているのだ。そしてこの「放棄」されるべき戦力のなかには、在日米軍も含まれる。ところが日本政府は長年、憲法に違反する選択を蓄積してきた(自衛隊の設立、日米安全保障条約の締結など)。その訴えを扱った最高裁判所も、判決を下すことそのものを避け、結果的に政府の行為を現状追認してきた(砂川事件、恵庭事件、長沼事件、百里基地事件)。

樋口は言う。「自衛権は国家固有の正当な権利である」とするロジックは、決して自明のものではない。また「軍事力」がなければ国を「自衛」できない、という考え方も短絡的に過ぎる[編者注:世界最大の軍事力を誇るアメリカが、911テロ事件を防げなかった事実はこのことを証明している]。もし「自衛権」の正当性を主張するなら、「戦力その他の実力手段」によるのではなく、「外交努力その他の平和的方法による自衛権行使」が構想されてよいはずだ。

第二次大戦中の日本政府は、「事変」というレトリックによって、それが戦争であることを隠蔽した(「満州事変」「支那事変」)。現 小泉政権はイラクへの自衛隊派遣をめぐって、「国際協力」「復興支援」というレトリックを濫用する。しかもそのレトリックを正当化するために、憲法の前文の一部を引用するだけで事足れりとみなした(第九条には全く触れようとしない)。以下の樋口の指摘は、十年以上も前になされたものである。その言葉はしかし、現在の問題状況を鋭くえぐりだしている。

【抜粋】
「日本国憲法の平和主義については、それを、少なくともフランス革命憲法史までさかのぼる国際協調主義の系譜のなかに位置づけ、その普遍性をあきらかにすることが重要であると同時に、そのような流れのなかで、およそ「暴力(ことばの広い意味での)によってまもられる平和」という考え方自体を否定する点で、断絶の関係にもあることを、忘れてはならない。たとえば、国際連合憲章は「共同の利益の場合を除く外武力を用いない」(前文)としており、それは、国連そのものが、憲章の署名国の敵に対する武力の勝利によって回復される平和を維持するものとして構想されたことを、反映している。そのような国際連合の基本的態度と、非武装平和主義を掲げた日本国憲法との間には、断絶がある。日本が「国連中心主義」を唱えるとき、どのような国連をあるべき国連の理念としてとらえるかを、たえず問い直しながら進路を見定めてゆくことが、とりわけ大切となる。日本国憲法の平和主義をめぐっては、特に、深瀬忠一『戦争放棄と平和的生存権』(岩波書店、1987年)を見よ。

 戦後日本の改憲問題をめぐる議論は、憲法九条のあつかい方を主要な争点として意識しつつ、おこなわれてきた。しかし実は改憲問題の根底には、「人類普遍」のものとして憲法が掲げる近代立憲主義の原理そのものを、西欧文化からの「おしつけ」として拒否しようとする流れ(「海外各国ノ成法」対「建国ノ体」の対立の現代版)が横たわっている。その点をふまえる視点を前提にして、特に、支配層の内部での改憲論をめぐる対立の意味を分析しようとするものとして、渡辺治『日本国憲法「改正」史』(日本評論社、1987年)。この視点は、「国際協力」の名のもとに軍事化と権威主義化をすすめようとする勢力のなかに、「憲法」シンボルを積極的に用いようとする方向があらわれてきているだけに、重要である。」

【参考】
9条連
http://www.9joren.net/

【参考文献】
樋口陽一『自由と国家――いま憲法のもつ意味』岩波新書、1989年
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/tg/detail/offer-listing/-/4004300932/all/249-7109244-0580348

樋口陽一『憲法と国家』岩波新書、1999年
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4004306264/249-7109244-0580348

樋口陽一『ほんとうの自由社会とは――憲法にてらして』岩波ブックレット、1990年
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/search-handle-url/index%3Dbooks-jp%26field-author...

樋口陽一『もういちど憲法を読む』岩波セミナーブックス、1992年
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4000042106/qid=1074920075/sr=1-9/ref=sr_1_10_9/249-7109244-0580348

井上ひさし=樋口陽一『「日本国憲法」を読み直す』講談社文庫、1997年
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4062634309/249-7109244-0580348

加藤周一・井上ひさし・樋口陽一『暴力の連鎖を超えて──同時テロ、報復戦争、そして私たち──』岩波ブックレット NO.561
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4000092618/qid=1074920103/sr=1-1/ref=sr_1_10_1/249-7109244-0580348

深瀬忠一『戦争放棄と平和的生存権』岩波書店、1987年
渡辺治『日本国憲法「改正」史』日本評論社、1987年

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