[美術]
2006.1.24  北川裕二

ジョナサン・クレーリー
『知覚の宙吊り──注意、スペクタクル、近代文化』

スペクタクル社会における注意と散漫

表象の世界のこの相対性は、(……)表象とはまったく異なった世界のもう一つ別の側面に世界の内奥の本質を求めるべきことをわれわれに示唆しているのである。
                ────ショーペンハウアー『意志と表象としての世界』

スペクタクルが議論しようとするものは、ただ、時期と量だけだ。
             ────ギー・ドゥボール『スペクタクル社会についての注解』

かくして、多様な感覚的世界とわれわれとの関係は、アプリオリな形式を構造的に押しつけることによってではなくて、目的を欠き無意識的な──まず何よりもしばしば性的な──傾向や力のもつ底知れない気まぐれによって決定されることになる。
                   ────ジョナサン・クレーリー『知覚の宙吊り』


本書『知覚の宙吊り』(2005、平凡社)が書かれた動機は、ヴァルター・ベンヤミンから与えられたのものだ。そのプロブレマティックは、『複製技術の時代における芸術作品』で論じられた知覚の変容を嚆矢としている。ジョナサン・クレーリーが、ベンヤミンのこのエッセイで特に注目したのは、第15節である。資本主義社会の成熟によって、主に大衆的な消費(文化)の場において組織される、知覚の新しいタイプについて論じた箇所のことだ。ベンヤミンはそこで、建築や映画に対する接し方の「二重の姿勢」について指摘し、知覚を二つのタイプに分類している。ひとつは瞑想のような精神の集中を伴う「視覚型」の知覚であり、もうひとつは「精神の集中といった面からはとうてい説明のつかない」、「散漫な状態ではたしうる」、「実際型」の知覚である。

ベンヤミンが、こうした「二重の姿勢」を問題にしたのは、「歴史の転換期に人間の知覚器官が」変容をきたすからにほかならない。無論このことは、人間が、社会の構成の仕方によっては、いかようにも作り変えられてしまうといったマルクス的な認識が、その基底にあったということだ。ベンヤミンは、特に19世紀後半から20世紀前半にかけての、大衆芸術としての映画が組織した「散漫な知覚」に対して、「知覚の深刻な変化」と看做していた。集中する知覚と散漫な知覚の「二重の姿勢」。だが、ベンヤミンのエッセイでは、「散漫」の希望的な可能性が指摘されたのみに留まった。「資本のダイナミックな論理」によって組織化される知覚の様態を認識し、克服するための視座が、単に与えられただけだったのだ。

本書は、ベンヤミンが残したこうした課題を正当に継承するものだ。しかし、クレーリーがこの課題に取り組むにあたって、中心的な研究対象に据えたのは、むしろ「散漫」とは対照的な知覚の様態であった。すなわち、それが「注意」である。本書の基調をなすのは、この「注意」に言及した言説を19世紀のあらゆる学問からかき集めてくることだ。哲学といった伝統的な学問に加えて、19世紀に台頭してきたさまざまな新興科学の文献、資料をくまなく渉猟し、網羅するということである。たとえばそれは、精神物理学であり、神経生理学であり、科学的心理学であり、あるいは社会学である。これらの学問が残した膨大な資料を整理することで、資本主義社会が要請した「注意する知覚」の様態を描きだそうとするのである。

要するに、彼はベンヤミンの認識を踏まえて、その後の知覚文化を論じるのではなく、むしろベンヤミンが映画に対して抱いた認識に学問的な正当性を与えるかのごとく、それ以前の、近代の知覚の変容を周到に跡づけていくのである。クレーリーが本書で採る方法は、周到なプランに基づいた慎重な迂回路なのだ。ベンヤミンの認識を論理的に一気に深化させるという方法は採らず、歴史に埋もれてしまった事柄を丹念にピックアップし、目的に向けて整理していく。本書は「歴史の転換期」としての初期資本主義下における知覚の、いわば博物誌である。と同時に、その作業によって、カント以来の近代的主体における知覚の変容をつまびらかにする系譜学の書であるとも言えるだろう。この辛抱強く抜かりない作業の後にこそ初めて、「散漫な知覚」という概念の可能性が開花するとでも言ったように。

人間の知覚能力を判断する基準として、「注意」が関心を集めていく時期は、カントを端緒に、ショーペンハウアーによって自覚された認識論的な近代的主体──主観と客観に截然と切り分けられた二元論的な光学モデル──の瓦解、すなわちデカルト以来の近代哲学が有効性を失っていく深刻な時期と重なっている。認識論上の危機が自覚され始めるこの時期に、そのことと入れ替わるように新しい知覚が、新しいモデル、さまざまな装置とともに<発明>されてくる。主体の外部としての客体が容易に措定されなくなった時代。19世紀的な科学のエピステーメー=知覚する身体という場の成立である。主体の研究は、新興科学の場へと移行するのだ。

この知覚は、あらゆるレヴェルで数値化されることを要求された。誰に?もちろん権力に、資本主義にだ。本書は、テクノロジーの革新として次々に発明される装置群によって、人間の知覚が徹底的に数値化されていくプロセスを暴露する。こうしたプロセスの中で、「注意」は、正確で、可能な限り途切れることなく持続し、と同時に目標を出来るだけ素早く達成することのできる身体能力の枢軸を担う機能に祭り上げられていくのだ。何よりもまず、判断力としての注意力を数量として見立て、測定することは、労働者の質に優劣を付けることを可能にしたからである。こうして、資本主義社会が推進(強要)する労働形態に忠実に従う身体が作りだされるのである。

不注意な者、散漫な者は労働するに値しない。よってこの社会には不適合であると看做される。このイデオロギーは、フーコーが論じたパノプティコンに始まる監視社会を経て、ドゥルーズの言う管理社会にまで通底している。テクノロジーの革新による監視と管理の強化は、ますます推進されているようにすら見える。「注意」はしたがって、19世紀も今も、資本主義の生産過程を存続させる上で、権力の強力なイデオロギーとして機能しているのだ。

ところで、「注意する知覚」が、労働といった概念の範疇の下で組織されていく一方で、「散漫な知覚」はどうなったのか。ベンヤミンが鋭く見抜いていたように、それは消費の場で束ねられていくのである。本書の魅力のひとつは、既に廃れたが、映画にいたるまでの数々の娯楽的な視覚装置、アトラクション、興行物が紹介され、網羅されていることだ。勃興するスペクタクル産業。だが、明らかにされるのは、知覚が労働から解放され、「注意」が次第に穏やかに「散漫」へと移行し、やがては解放されるなどといった呑気な事態では到底ない。消費のアリーナで眼は何を見るのか。いや、見させられるのかと言ったほうがよい。一方では、神経生理学などで「注意」の機能が研究され、いわば「労働する知覚」を組織するのだとすれば、他方では、様々な娯楽装置によって「消費する知覚」が束ねられる。本書は、フーコーやドゥボールがともに考察した「権力が拡散するメカニズムの輪郭」の、いわば初期段階を丹念に、細密に描く。クレーリーは、現代にまで継続される「注意」と「散漫」の錯綜した関係を次のように言う。

「注意力の構築におけるあらゆる変化に対して、それと並行するように、不注意や散漫、「放心」状態のかたちにもまた変化が生じている。制度としての適切な注意力が、何かとりとめのないもの、焦点のぼやけたもの、自分自身へと折りたたまれたものへと変わるところに、つねに新しい閾が出現する。異質の刺激(映画、ラジオ、テレビ、サイバースペースのいずれであれ)の流れを「処理して」認識する過程が設定されてきたために、不注意への一種の逸脱は、分裂や一時性といった反対の経験を、ますます助長してきた。こうした経験は、流動と退化という資本主義のパターンとは異なるばかりか、基本的に両立し得ない。注意という連続体を構成する一部となっている白昼夢も日常生活の政治学にとっては重大だが、つねに不確かな部分とみなされてきた(……)。
 現代の多くのテクノロジー装置のひとつの特徴は、低レヴェルでの注意力の持続を課している点にある。睡眠以外の生活のいたるところで、さまざまな度合いで、この注意力は保持されているのである。十九世紀後半、「自由な」時間、あるいは余暇が無惨にも激しい勢いで植民地化を始めた。当初は、その効果は部分的で、比較的まばらなものだったが、顕著な注意力と、主観=主体的な没入の自由な戯れとのあいだに揺れが生じることになった。(……)このようなテクノロジーの環境においては、人の行為への意識的な注意と、機械的に自動調整されるパターンとを区別することに意味があるかどうかは、疑問である。(……)かつては夢想と呼ばれたであろうものは、いまや、現在のリズム、イメージ、スピード、周囲の状態とひじょうにしばしば直結していて、それらのフォーマットと一致しないものは何であれ、不適切なものとして放棄されるに至る。こうした状況の隙間で、トランスや不注意、白昼夢や固着が、いかにして創造的な様態を開花させることができるかは、目下の研究の限界を超えている。いまのところ特に重要なのは、新しいテクノロジーがもたらした倦怠の諸形態のなかで、いかなる創造的な可能性が胚胎しうるかを判定することである。」(p78-79)
 
こうした認識の射程は、19世紀当時の科学では、到底持つことができなかった。が、しかし、数値化される知覚の研究とその開発は、同時に数値化されない人間の底知れぬ暗部の存在をも自覚せしめることになってしまったのである。そして、この数値化される知覚とされない部分がダイナミックに錯綜する空間こそが、当時の賢明な哲学者や芸術家には危機として認識されたのだ。本書では、19世紀後半に制作された三つの絵画を取り上げ、この危機的空間の様態を暴き出す。マネの『温室にて』(1879)、スーラの『サーカスのパレード』(1887-88)、セザンヌの『松と岩』(1900)だ。この三つの絵画の読解こそが、本書の面目である。

ここではこれらの三作の分析に関しては、敢えて詳述しない。が、若干述べておくと、スーラの『サーカスのパレード』の読解は、とりわけスリリングである。本書のクライマックスであろう。少なくとも私には、スーラの霞んだ印象を与える絵画が、こうも分裂的で起伏に富んだ空間に見えてくるという経験がなかった。クレーリーの手並みには、まずアメリカのフォーマリズム批評の良き伝統を継承し、その手法を存分に生かすということがある。その上で、イコノロジー以来の芸術社会学的な観点から、ベンヤミン、ドゥボール、フーコーなどから得られる政治=社会学的な概念を、19世紀の諸学問、文化産業、絵画などへ向けて縦横に駆使する。したがって一枚の絵画が少なくとも、同時代の心理学や生理学、哲学、社会学、文化産業の数々の興行物、他の芸術作品などとの関連から論じられる。絵画を何層ものレイヤーが重なったものとして見ることはいうまでもない。重要なことは、絵画における諸レイヤー間の、ダイナミックな権力関係を正確に測定することである。無論、このことは、不可視の構造を暴露するのみではない。レイヤーの前後関係が何を契機として入れ替わったのかを突き止めることであり、またそれがウロボロス的な入れ子状態として存在するのなら、それはどうしてかを明らかにしなければならない。

確かに本書の分析は、深読みであるとの批判を免れない。しかしこの深読みを、むしろ肯定的に受け止められないか。というのも、彼の執拗な眼──注意する知覚!──は、自らが周到に構築する建築物を、図らずしも解体しかねない契機を孕むとも言えるからである。本書での作品の読解の各章はしたがって、われわれを次のような認識へと導くものだ。すなわち、モダニズムの美学において──「権利上存在する」──「純粋知覚(視覚)」とその不可能性といったジレンマと、他方でドゥボールが暴露したスペクタクル社会のあまねく遍在によって、ますます分離され孤立化する知覚におけるその構築といった二者の狭間に走る亀裂へ、と。見過ごすことができないのは、この亀裂を、まさに見据える者の身体さえも貫き、引き裂こうとするそのことだ。この危機への自覚のない者には、そもそも批評は無理である。芸術家であるならばなおさらのことだ。

それゆえ私は、本書をあるプロジェクトの途中経過、一局面であると看做すことにしたい。というのも、本書が、ドゥボールの理論をその立脚点に据え、そのことを隠匿していない以上は、<現代>のわれわれの知覚に対する「反省的思考」さえ促す射程を同時に持ち得ていなければ、片手落ちであると批判されてしまうことは、やはり否めないからである。逆に言えば、この著作の成果を踏まえた上で、私が期待する理論は、ドゥボールがシチュアショニストの頃洞察したスペクタクル社会の下での「芸術の消滅」こそを臨界点に、むしろそこから折り込まれてくる──こう言ってよければ、フォーマリスティックな──新たな知覚を構築する別の芸術とはいかなるものか、という問いに対する応答でなければならない。そしてこの地点で、おそらくは「散漫な視覚」の読み替えも可能になるのだと考えたい。こうした観点で捉えない限りは、少なくとも私にとって本書は可能性の書物としては見えてこない。つまり、『スペクタクルの社会』がシチュアショニストにとって具体的な道具であったようには、この書物は道具にならないということである。このような認識が、しかし彼が謙虚にも白状している「トランスや不注意、白昼夢や固着が、いかにして創造的な様態を開花させることができるかは、目下の研究の限界を超えている」というセンテンスの裏に隠された企図をつかむことに繋がるのである。

言い換えれば、第一章で論じられたショーペンハウアーによって自覚された認識論的な近代的主体の瓦解から、最終章で引用される1907年のフロイトの手紙で描写されたコロンナ広場までに組織された19世紀から20世紀初頭の知覚のあり方を知ることは、単に知識の集積であってはならないということだ。重要なのは、芸術家たち(本書ではマネ、スーラ、セザンヌ)が、あの亀裂という危機に対して、どのように対処したのかを知ることだ。資本主義社会が反復的に継続されている以上、それは<現代>にいたるまで、つねに深い裂け目を曝し続けているのだから。肝心なのはこの認識だ。今日の知覚に対して、それはどのように働きかけているというのか。そこから後退しないこと。それこそが「知覚の宙吊り」である。

最後に一点だけ指摘しておく。本書で詳述された知覚の「注意」と「散漫」の様態は、柄谷行人が『トランスクリティーク』などで取り上げた「消費者としての労働者」の<人格>を描写するにあたって、貴重なヒントを与えてくれるはずである。

[PAGE TOP]
[BACK]