[美術]
2004.9.24  有賀 文昭

ロバート・ライマン--至福の絵画


 この展覧会には、見るものがたくさんあります。一枚一枚の絵にも、展示の仕方にもです。壁の上で、それぞれの絵がほかの絵を邪魔せずに自分らしくいる、その心地よい感じを作り出せたのではないでしょうか--ロバート・ライマン[*1]

 現在川村記念美術館で開催中の『ロバート・ライマン--至福の絵画』(日本では初となる回顧展)がすばらしい。ライマンの作品はいつも、どこかくすぐったい感じがする。なにかひっかかる。なにかがおかしい。展示された作品の前を通り過ぎた後も、モヤモヤとした不思議さが残る。たとえば〈歪められた線のドローイング〉という作品について。これは正方形のポリエステルによるキャンバスに、ヘタウマ風の矩形がドローイングされたものであり、一見、素材の選択に趣味の良さが伺えるミニマル風の作品とも思える。だが、それにしても妙に配置のバランスが悪い。しばらく見ているうちにこれは人間の手業ではないように思えてくる。とは言え、確かにそれが手で引かれたものであることを示すように、線描はイリとハライや筆圧の変化をとどめている。以上の観察からすると、一般に知られた描き方では描けそうにない。だが、確かに目の前にそれが存在していることはわかる。これがある手順を以て組まれたものであって、合成写真ではないことはわかる。一体どうやって描いたのか?他にもおかしな感じは色々あるが、このような捉えがたい不思議さがあって初めて、ライマンの作品がいかにして作られたのかという興味も沸いてくる。30点に満たない作品点数(連作を一点と数える)とは言え、このモヤモヤ感の原因を突き止めようとすれば、鑑賞者は多大な時間と労力と注意力を必要とするだろう。だが幸いなことに、今回の展示作品にはすべて林寿美による丁寧かつ明快な作品分析が付されている。このモヤモヤ感がどうやって生じたのかを、労せずして理解することができる。〈歪められた線のドローイング〉について、林寿美は次のように解説している。「ライマンは、まずポリエステルの布地を用意し、その上に定規とボールペンで完全な方形に線を引いた後、固く平らな表面を持つフォームコアの板に巻き付けながら伸縮性に富むポリエステルを多方向に引っ張り、線を自在に歪めて、この作品を作り上げたのである。」
 おそらくライマンはある不思議な効果が得られると確信した上で制作に当たるわけではないだろう。[*2]だが、このような効果が彼の望むところであったことは間違いない。ライマンは言う。「それは、これまで私たちが見たことのないものなのです。どの絵もそれ自体が、私たちが見たことのないものなのです。」ノイズを入れたり身体と道具の不調和を強調して見せたりしたところで知覚の復元力に適わないのなら意味がない。ライマンが挑むのは知覚の仕方そのものであり、つまりは絵画という物体(彼は絵画を物体であると考える)の分節そのものである。巻末に付された論考において林道郎は次のように書く。「こちらを圧倒するドラマも、引きずり込む奥行きもない状況の中で、私たちは、微細な感覚のざわめきに耳を澄ましながら、それを自らゆっくりと転調させ、その変容を慎重に観測し評価するよういざなわれる。そしてその過程を通じて、作るという行為とともに、見るという行為が、硬直から解放され、さまざまな素材や環境との交渉の中で、新しいシンタックスを与えられるさまを感得するのである。」[*3]「新たな言語ゲーム」、ライマンはそれを喜びと呼ぶ。
 
 「ここで微笑みを浮かべてもらえればいいですね。本来、絵画があるのは・・・、絵画がなすべきは、喜びをもたらすことだと思っていますから。それが私の望みです。これらの絵が喜びとなることです。」--ロバート・ライマン [*1]



*1 『ロバート・ライマン--至福の絵画』展カタログ,p10
*2 フィリス・タックマンによるインタビュー。作品は制作の過程とどのように関係していますかとの問いに答えて。「RR:何から何まで、関係しています。描き始めるときには、どんなものになるのか、まるで見当もつかない。過程があって、初めて絵が完成する、そういうことですね。あらかじめ計画があるわけではないのです。ちょっとした着想はあります。それからどんなふうにしたいかという感じもある。」前掲書,p82
*3 「零度の絵画--RRの呟き」林道郎/前掲書,p93
  

2004年7/10−10/24
川村記念美術館:http://www.dic.co.jp/museum/

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