[思想]
2004.8.26  北川裕二

ジョルジョ・アガンベン『開かれ──人間と動物』

1──開いた傷口としての宙づりの生

 おそらくは「人間」の切り刻みを何より最も得意とするこのスプラッター哲学者の新刊『開かれ──人間と動物』(平凡社)は、各章のどれもが5〜6頁ほどの断章群から成り立つ全20章の「小さな本」であり、たとえば周到に検討したプランをもとに時間をかけて丹念に書き込まれた書物などというよりは、老練の職人がテーマに沿った素早い身振りでサッと仕上げてみせた名人芸のそれに近い。したがって、この哲学者の思想に接近したいと思う者にとっては、まさにうってつけの入門書となるものであるだろう。だが一方でそれは、独自のテーマ群に基づきながら、熟練した者だけに可能のアクロバティックな芸の披瀝のようにもみえ、よってその真意を理解するにあたっては、読者においてもおのずと読解の作法が求められているともいえそうだ。

 本書は、人間と動物(人間であらざるもの)とを分節し隔てる「分割線」の政治的機能とその歴史という著者の新たな着想を著わしたものである。いわば以前からの研究課題である生政治分析の、そのヴァージョン・アップを目指したものである。本書では、第四章「分接の秘儀」においてその主題が明確に述べられる。

 「生」という概念は、そのつどそのつど分節化され分割されてきたのである。哲学、神学、政治学にはじまり、のちの時代の医学や生物学にいたってようやく、一見するときわめて懸け離れている分野において、決定的ともいうべき戦略的機能が、中間休止(チェズーラ)や対立によって、この概念に付与されることになった。すなわち、われわれの文化において、定義されえないにもかかわらず、だからこそなおさら、たえず分節化され分割されなければならないものこそが、まさしく生にほかならないかのようである。(中略)
 かくして、植物における生と関係からなる生、器質的な生と動物的な生、動物的な生と人間的な生の分割線(チェズーラ)は、動く境界線として、とりもなおさず生きた人間の内部に移動するのであり、このような内的な分割線を欠くならば、人間的なものと人間的でないものとを決定するということ自体、おそらく不可能になろう。(中略)
 人間と動物のあいだの分割線(チェズーラ)がとりわけ人間の内部に移行するとすれば、(中略)われわれが学ばなければならないのは、これら二つの要素の分断の結果生じるものとして人間というものを考察することであり、接合の形而上的な神秘についてではなく、むしろ分離の実践的かつ政治的な神秘について探求するということなのである。もしつねに人間が絶え間のない分割と分断の場である──と同時に結果でもある──とするならば、人間とはいったい何なのか。(第四章「分接の秘儀」p26-31)
 
 このような問いを発する本書は、人間というこの「絶え間のない分割と分断の場」の数々を駆け抜けるように描写してゆく。目眩いを起こすほど鮮やかにして手荒いその手さばきは、歴史的文献を、まるでハリウッドのSFスペクタクルみたいにタイムワープしながら縦横無尽に渉猟し、スリリングにその間を縫っていく。第1章「動物人(テロモルフオ)」では、グノーシス派による動物の顔をした擬人像の細密画を取り上げることで本書のイメージを素早く形作って印象づけ、第2章「無頭人(アセファル)」では、早々にグノーシス派の思想を「低俗唯物論」として位置づけたバタイユが引用され、彼が1930年代後半に着想した概念「用途なき否定性」に触れたかとおもうと、第3章「スノッブ」では、『ヘーゲル読解入門』第二版でのコジェーヴによる高名な註釈に見られる「日本的スノッブ」をこの「用途なき否定性」に重ね合わせてみせる。

 本書ではこうした身振りが章を重ねるごとに次第にエスカレートしていく。例えば、第5章「経験的認識」ではトマス・アクィナスのエデンの園の解釈を、第7章ではリンネの『自然の体系』の「霊長目」についてを、第8章ではピコ・デッラ・ミランドラの「ディグニタース(尊厳=序列)」という語の人文学的な意味を、第10章「環境世界」ではこの概念を唱えたユクスキュルの生物学を取り上げ、ついには第12章から第16章でハイデガーの「形而上学」への読解にまでいたる。そしてティツィアーノ作『ニュンフと牧童』を語る印象深い第19章「無為」を挿んで、最終章の第20章で再びバタイユに戻るといった具合だ。一見何の関連性もないテーマ群を散りばめた各章は、しかしそれらを辿っていく果てに、「人間」が、まな板にのせられた鯉みたいにズタズタに切り刻まれ、もはや原型を止めない認識不能のすり身状態となり、にもかかわらず、そんな状態になってもなぜかまだ奇蹟的にも生きているといった有様にまで変質されてしまっているかのようである。

 以上で察しがつくように、『開かれ』はほとんど支離滅裂な書物である。しかし、各章を連携するキーワードとしてあまり聞き慣れない用語が参照され、その役割を果たすことで、かろうじて一冊のアカデミックな人文科学の専門書としての体裁をなんとか保っているといえるだろう。重要なキーワードとは、第9章のタイトルとなった「人類学機械」という概念である。訳註によれば、この概念は1980年に没したイタリアのドイツ研究者フリオ・イエージが提唱したものらしい。が、アガンベンは独自の解釈に基づきこれを使用しているようだ。端的に云って、本書における「人類学機械」とはこういうことだ。「人間/動物、人間/非人間といった対立項を介した人間」を「産出」する「歴史化の原動力」としての「操作の場」。通読してわかるのは、本書の一方の目的とは、この「人類学機械」の「操作の場」においての政治の輪郭を素描することである。著者によれば、この政治的操作としての「人類学機械」とは、なによりも「人文主義という人類学機械」のことであり、つまりは言語=哲学のことである。

 「存在論、あるいは第一哲学は、人畜無害の学科科目などではなく、むしろ、人類創生、生物の人間化を実現させるような、あらゆる意味において根本的な操作である。形而上学は、当初からこの戦略に絡めとられている。すなわち、形而上学(メタフィジカ)は、まさしく動物の自然(ピュシス)を人間の歴史へと止揚し温存させるようなメタに関わっている。この止揚は、一挙に成し遂げられた事象ではなく、むしろ、つねに進行中の出来事なのであり、それこそが、たえず個々人をそれぞれにおいて、人間と動物、自然と歴史、生と死とを決定づけているのである。」(第17章「人類創生」p119)

 もう一方の目的は、この機械の「停止」へと向けられる。それはどのようにしてか。だがこのことを問う前に、もう一度本書の構成を見てみよう。するとある特徴に気づくだろう。すなわち、バタイユがハイデガーを挟み込んでいるのがわかるはずだ。バタイユで始まりバタイユで終わる本書の後半部は、ハイデガー哲学の読解、それもとりわけその形而上学が孕みもつ政治性を暴くことに費やされている。それゆえ、さしあたって本書を理解するには、この<戦時下>を生きた二人の思想家の「分割線」とはどのようなものかといった問いを基軸に据えるべきであろう。というのも、ベンヤミンを別とすれば、本書で参照される思想家では、1930年代を生きた彼らこそが、世界戦争とテクノロジー消費社会に囲繞された<現代>という日常の意味を最初に生きた思想家であると云えるからだ。彼らの出会した問題とは、今やわれわれのそれである。

 『開かれ』の分割線のひとつは、<戦時下>のバタイユの思想から引き出される。著者によれば、それはコジェーヴのヘーゲルに関する講義でテーマのひとつとなっていた「歴史の終焉」、あるいは「歴史以後(ポストストリコ)」をめぐる問題からバタイユによって着想されたといわれている「用途なき否定性」に収斂される。この概念は、バタイユからコジェーヴに宛てた手紙の中に見られる。

 「もし行動(《すること》)が──ヘーゲルの言うように──否定性であるならば、《もはや何もすることがない》人間の否定性は消滅してしまうのか。それとも《雇用=用途なき否定性》の状態で存続するのか、という問いがあらためて発せられるはずです。個人的には、後者だと断定せざるを得ません。というのも私自身がまさにその《雇用=用途なき否定性》であるからです(私は自分をそれ以上明確に定義することができません)。私としては、ヘーゲルがこの可能性を予見していたと考えたいところです。ただ、少なくとも彼の叙述する諸現象の過程の終結点には、この可能性は想定されていないのです。私の生は──あるいは生の流産は、もっと明確に言えば、私の生というこの開いた傷口は──それだけでヘーゲルの閉ざされた体系への反駁になるのではないかと、私は考えます。」(『聖社会学』ドゥニ・オリエ編 p161)

 手紙の日付は1937年12月6日。このことが意味するのは、バタイユが、1934年から39年という5年もの間、この5歳年下の亡命ロシア人アレクサンドル・コジェーヴの講義に熱心にも出席を続け、ヘーゲル哲学の「コジェーヴ的」(ドゥニ・オリエ)理解を深めていく線と、ドキュマンを経て、アセファル(無頭人)からコレージュ・ド・ソシオロジー(社会学研究会)にいたる彼(ら)独自の実践の線が、<この時点においては>、激しく交差しながらも、しかしそれゆえに決定的に分裂したということである。そしてこの分裂こそが、同じ手紙に見られる重要なセンテンス、すなわち「私の生というこの開いた傷口」の真意なのである(この生は通常考えられているよりもひどく複雑なものなのだが)。要するに、バタイユにとってこの分裂は、「歴史」の亀裂を縫合することを目的とする「理論」の不能性を、図らずしも証明してしまったということだろう。ヘーゲルの「叙述する諸現象の過程の終結点」が「開いた傷口=用途なき否定性」だというのは、そういうことだ。このことの意味は決して軽くない。付け加えれば、コジェーヴはこの手紙以前に、バタイユのコレージュ・ド・ソシオロジーへの協力の要請を断っていた(幾度か講演はしたものの)。(実践と理論が交差する具体的な局面においては、一人の有能な人材の協力が得られないということは、当のものに対する予想以上の打撃を与えるものだ)。

 しかし翻って云えば、このことは、バタイユの理論的な道程において、ヘーゲル=コジェーヴ流の「歴史の終焉」ないし「歴史以後」という概念との対決に「私の生」が抜き差しならぬ役割/舞台を設定したというよりはむしろ、それが人間と呼ばれようと動物と呼ばれようと、実のところは一切の形象化を拒絶する「根本的な操作」そのものであることを、彼自身が再度確認したことを表しているのだ──アセファルとは「炎たちの一体性」、「恍惚の火炎は祖国を焼き尽くす」──。「開いた傷口」とは断じて表象であってはならず、まさしくつねに「終焉」を拒絶する「進行中の出来事」でなければならない。つまりそれは、「私の生」において、理論と歴史が凄絶に激突するデペイズマン、すなわち出会いによる引き裂きのことにほかならない。ゆえに、「用途なき否定性」は「明確に定義すること」ができないのである。この概念は、ヘーゲル=コジェーヴ的なコンテクストに「反駁」するためにこそ、そこから用語を盗用し転用してみせた「アセファル」の翻案そのことなのである。

 だが、アガンベンはこの「用途なき否定性」を、こともあろうにコジェーヴの「スノッブ」に重ね合わせてしまう。(このあまりにも有名な註釈(概念)は、1968年の『ヘーゲル読解入門』第二版に初めて載ったものだ。)

 「コジェーヴが歴史以後(ポストストリコ)の状況を記述しようとするたびに、バタイユは自分の師のその道化芝居じみた口調を咎めたものだったが、そうした調子は、この註釈でピークに達している。ここでは、アメリカ流の生活様式が動物的な生と同等のものとみなされるだけではない。むしろ、日本的なスノビズムというかたちで人間が歴史に生き残ることそのものが、よりいっそう洗練されたタイプの「用途なき否定性」(たとえパロディ化されているにしても)に類似しているのである。」(第3章「スノッブ」 p23)

 一方のパロディには目配せしながら、他方の盗用=転用という事実には素知らぬ振りをするこの「身振り」には、彼独特のものがある。明らかに「私の生というこの開いた傷口」が、本書の根本的なモチーフのひとつになっているにも関わらず、バタイユがいつもアガンベンの理論的展開のための踏み台ないし漬け物石のように扱われる様をみると、バタイユがちょっと気の毒におもえてしまう。本書では、バタイユの試み──アセファルの、コレージュ・ド・ソシオロジーのそれ──が、「彼らの特権化された経験のなかにほんの一瞬だけ垣間見られる無頭の存在は、おそらく人間的存在でも神的な存在でもありえなかった。しかしまた、この無頭の存在は、断じて動物的なるものでもあってはならなかった」(p16)と語られる。ということは、ある意味で本書で取り上げられた問題の解決の糸口がすでにここに示唆されているということである。にもかかわらず、アガンベンはその可能性を具体的に問うことをしない。できないというべきかもしれないが。

 本書では、「一瞬だけ垣間見られる」この可能性を直ちに閉じ、「動物」が、歴史の弁証法を通して次第に「人間」になってゆく劇烈な過程の、しかしその「終焉」においては逆説的にも当の動物へと環帰してしまう、このヘーゲル=コジューヴ流のメビウスの帯のごときループ構造をテクニックとして巧妙に参照することで、バタイユの試み──つまり彼のテクストと生──を「脆弱きわまりない」ことだと断罪する方向に論旨をすすめてしまう。(因みに、本書各章のパラグラフ、センテンスにおいては、この<メビウスの帯的ループ構造>が品を替えてくどいほど繰り返される。このテクニックの濫用が、読者をして出口なしの絶望的な閉塞感へと引き込んでいくが、それは「外部」=クライマックスへの期待をより効果的に高めるためのものだろう。人間と動物をめぐる数々の切断線を述べ立てたあとで、必ずといってよいほどこのループがテクニックとして持ち出されている。ここでは、ループが幾層にも複雑に重ね合わされたスリリングな<歴史読み物>へ仕立てあげることに情熱が注がれているようだ。ハイデガーからコジェーヴ、あるいはラカンなどを経てアガンベンにまで重宝されるこの構造を、さしあたって「ループ・イデオロギー」と呼んでおこう。)

 「それゆえ歴史の終焉は、エロティシズム、哄笑、死を前にしての歓喜といった形式のなかで「残余」として人間の否定性が保存されるような、ひとつの「エピローグ」をもたらす。このエピローグの仄暗い光のもとで、自己意識をもつ至高の賢人の眼前にふたたびよぎるのは、動物たちの頭部ではなく、手のつけようのないほど敬虔な人々〔hommes farouchement religieux〕、「恋人たち」あるいは「魔法使いの弟子たち」が呈する無頭(アセファル)の形象なのである。だが、このエピローグもまた、それ自体脆弱きわまりないことが発覚してしまう。」(第2章「無頭人」 p17)

 こうした視点が、前述したように「開いた傷口=用途なき否定性」を「スノッブ」に関連づけることへと及んでゆく。しかし、<戦時下>のバタイユの思想を「歴史の終焉」というメタから断罪するのは公平とは云えない。確かにアガンベンの云う通り、「歴史の終焉において人間のうちにふたたび動物性が見いだされる」といったイメージは、バタイユを「大いに触発」したのは事実だとしても、それに以上に触発されているのは、このメビウスの帯的なループ構造を反芻する本書の著者である。とりわけこの手紙では、バタイユは、「私の生というこの開いた傷口」はそのままにしておけと云っているのではないか。ほとんど懇願に近いかたちで訴えているように私にはおもえる。しかもバタイユの云うように、「否定性」としてのヘーゲル哲学の、その「終結点」に「開いた傷口=用途なき否定性」が立ち現れるのだとすれば、人間の歴史はまさに、「私の生」の単独性において、決して閉じられず開かれたままの「宙づり」となるのにもかかわらず。

 いかなる状況によるかはさておき、人間が人間であると確認される方途が立ち現れるのは、生それ自体が、決して閉じられることのない「宙づり」というその間隙に陥ったことにおいてである。先に引用した第四章「分接の秘儀」に見られる「われわれの文化において、定義されえないにもかかわらず、だからこそなおさら、たえず分節化され分割されなければならないものこそが、まさしく生にほかならないかのようである」というセンテンスの「定義されえない」という言葉は、このことを云っている。つまりこれは、問いに対する答えの遅延、言い換えれば、答えに見合った問いを導き出す函数とその代入といったことなのである。というのも、答えは出ているのだ、なぜならわれわれは既に生きてしまっているのだから。したがってこの函数が意味しているのは、問いのなかに含蓄された指示の矛先を変えてやるということなのである。端的に云って、「人間とは何か?」と問うのは誤謬とは云わないまでも、問いは次のように書き換えられる。すなわち、「いかなる条件が人間をしてそのような問いに向かわせしめるのか?」と。(これこそが実は、「低俗唯物論」の<問い>である。)

 先の手紙の別の箇所でバタイユは、「行動という点ではもはや何も為すべきことのない世界で、再び何か《為すべき》こと」を見いだすとすれば、それは「為すことから解放された部分の実存に満足を与えるということ、つまり余暇(ロワジール)の利用が問題」であると云っている。このセンテンスはことのほか重要である。というのも、このことはヘーゲル=マルクス的な「生産(労働)」における様式の、その臨界点でもあるところの「用途なき否定性」と、かねてからバタイユの関心事であったマルセル・モースなどの社会学者によって次第に明らかにされた贈与交換という位相──そしてアセファルにおいてはなによりもニーチェ──における「蕩尽(焼尽)」ないし「消費(戯れ)」の形態が、宙づりの生において、深い亀裂を走らせながらも<劇的に>交換されることを示唆しているからである。「余暇(ロワジール)の利用が問題」になるとすれば、この文脈で捉える限りにおいてである。アガンベンは、これをおそらくは意図的に無視して素通りしている。

 一方アセファルの実践に立ち戻ってみれば、アセファルはアガンベンの云う「無頭の形象」ではなく、むしろあらゆる「人間的な」形象の、その蕩尽ということに尽きる。アンドレ・マッソンの描いたあまりにも有名なイメージに囚われてしまっているとはいえ、『無頭人(アセファル)』を通読してわかるのは、その核心においては、無頭であれ有頭であれ、人間の形象化作用──歴史の弁証法とその終焉──のことではないということだ。それらに対してアセファルの実践は、全面的なポトラッチを求めているのである。つまり、アセファルとは「つねにあらたに目覚める遊戯」(ニーチェ)なのである。

 「ちょうど囚人が監獄から脱出するように、人間は自分の頭から脱出した。
 人間は自分自身を越えたところに、罪の禁止である神ではなく、禁止を知らないひとつの存在を発見した。私がそうであるものを越えたところで、私はひとつの存在に出会う。それは頭を持たないゆえにわたしを笑わせ、罪と無垢から成るゆえにわたしを不安で満たす。それは左手に鉄の武器を持ち、右手に聖心臓に似た炎を持っている。それは同じひとつの噴火のうちに<生誕>と<死>とを結びつける。それは人間ではない。それは神でもない。それはわたしではないが、わたし以上にわたしである。その腹部は迷路になっている。そこに彼は自分自身が迷い込み、彼を一緒にわたしをも迷わせる。そしてそこでわたしは、彼であるわたし、つまり怪物であるわたしをふたたび見いだすのだ。」(『無頭人(アセファル)』──「聖なる陰謀」ジョルジュ・バタイユ p12-13)

 勿論、『無頭人(アセファル)』の冒頭を飾るこの宣言が鮮烈で決定的なイメージを伴っていることを否定するつもりはない。だが、これがいったいどのような「形象」にいたるのか「明確に定義すること」はできない。アガンベンであれば、まさしくこれこそが「人間と動物のあいだの分割線」を巡る人間の「内戦」であると云うだろう。しかし、この宣言においてそれが成り立つとすれば──つまり形象化の予兆が読み取れるとすれば──、「頭を持たない」という件においてではなく、むしろ「左手に…を持ち、右手に…を持っている」という箇所においてである。もし「左手」「右手」というこのあまりに人間的な──左右・前後という空間を生成すると同時に「人間」を生成し定位しもする──この与件的な対語が使われなければ、この宣言は、より<可能性>に充ちたものになっただろう。「頭を持たないゆえに、それは人間でも神でもなく、そうであるものを越えたところで、彼でもあるわたしは、わたし以上にわたしであるところのもの、怪物であるわたしの腹部の迷路に自分自身が迷い込み、彼を一緒にわたしをも迷わせ、同じひとつの噴火、聖心臓に似たこの炎のうちに、<生誕>と<死>が結びつく、笑いと不安の混淆した罪と無垢から成る、この禁止を知らないひとつの存在…それこそが鉄の武器である」。つまり一言で云えば、「私の生というこの開いた傷口」…と呟くほかない、宙づりの生。

 「迷路」における「根本的な操作」とはどのようなものか。言い換えれば、人間だの動物だのといった形象化の罠に囚われることなく、宙づりの生の下で「鉄の武器」に留まることの、その機能とはどのようなものか。真に問われなければならないのはこのことである。したがって重要なのは宙づりの「中心に空虚を見せてやること」でも、この「空虚に身を曝すこと」でもない。「人間概念を左右する機械を機能させないようにする」ためにはむしろ、自らが徹底した機械=函数であるほかにはない。たとえそれが狂った函数だとしても。端的に云ってこのことは、極めて日常的な(だがそれゆえに奇蹟的な)生の局面における夥しい<技術>の問題なのである。そのとき「無為」はどこにあるか。こう問い直さなければ、おそらく共同体は、いつまでたっても「到来」することはないだろう。

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