[映画]
2004.5.17  印牧雅子

IN THE CUT

disarticulated corpse(解体された死体)

 現在公開中のジェーン・カンピオン4年振りの新作『イン・ザ・カット』(2003)は、観客が作品の中に単線的なストーリーを見出すことのナンセンスを明るみにしているようにみえる。その余りに露骨で単純すぎるストーリー展開は、巷で謳われている「官能サスペンス」という形容をかえって疑わしいものにする。この映画が扱う主要なモチーフ、詩の一節やスラングに目を移せば、それらの言葉が、もともと帰属していた言語体系やコンテクストから切り離されたものであることに気づくだろう。そもそも、タイトル「イン・ザ・カット」は、女性の性器を語源にもち、「割れ目」を意味する単語である。このタイトルが示しているように、この映画で注目すべきことは、主題である殺人事件や、詩の一節やスラングなどの言葉を集める癖をもつ主人公の精神生活・行動様式といったあらゆる要素が、何らかの統合を失った断片(カット)へと向けられていることである。

 物書き(詩人)を名乗り(こころざし)つつ、ニューヨークで大学の文学講師をする主人公フラニーは、ある殺人事件(身体を部分に切り刻まれたdisarticulated 殺人事件)をきっかけに、周囲に起こる異変に巻き込まれる。フラニーは、街で、地下鉄の広告で、あらゆる場所で言葉を集める癖がある。ダンテの一節、キーツの一節、俳句などを紙に書きとめ、脈絡なく収集する。フラニーは、男子生徒のひとりには、新しいスラングを教えてもらうために学校外で会っている。彼女は脈絡なく言葉を集めその転じ方を研究するように、特定の男性と付き合わず、同時に複数の男性を恋愛の対象にしている。そうしてフラニーが出会う人物たちが、空々しいまでに順番に、次々と殺人事件の犯人として疑われてゆく。この映画を特徴づけている、フラニーの終始一貫した言葉の断片への志向が示すとおり、行動においても統合的な視点を欠いている特性、彼女が巻き込まれるバラバラ殺人事件、そしてタイトル「イン・ザ・カット」が示す言葉の転用、字義通りの「割れ目」。映画をはじめから終わりへと辿ってゆく限り基調となるリニアなストーリーに対して、矛盾するようにいたるところに浮かび上がり、この映画を織り上げているのは、いま挙げたような、解体され断片化された性格をもつものたちである。

 同じカンピオンの手になる『ピアノ・レッスン』(1993)を見てみよう。作中全体を執拗に繰り返すピアノの音楽は、登場人物たちに様々な反応を惹き起こす。主人公エイダの夫であるスコットランドからの入植者スチュアートの友人で、舞台となるニュージーランドのマオリの人々と同化しているベインズが、ピアノ・レッスンをエイダに請うのも、エイダがピアノを弾いている姿を見て魅了されたからだ。このように、ピアノの音楽はストーリーが展開するきっかけを与える構成要素である。だが同時に、観客は、ピアノの音楽がこの映画のかなりの部分を占めるがゆえに、音が鳴っている時間とそうでない時間とを意識せざるをえない。観客は、このピアノの音楽が映画の地と図を、どちらが地になりと図になるかを宙吊りにしたまま形づくっているような事態に気づくだろう。その時観客は、映画をひとつの形式として、ストーリーを追う(感情移入する)レベルとは別なレベルで観察することになる。

 カンピオンが意識させるのは、この映画を埋め、滲みこんでいる音楽が、ストーリーを運ぶ駆動力であると同時にそれを対象化する、異なるレベルに我々を立たせることを要請している事実だといえる。観客の意識は、映画において異なる階層の間を漂わざるをえなくなるはずだ。そこでストーリーは単線的なものではありえない。もうひとつ暗示的な例を挙げるとすれば、『ピアノ・レッスン』でスコットランドの人々が演じる劇を一緒に見ていたマオリの人々が、斧で首を切ろうとする場面を慌てて舞台に乗り込み取り押さえるシーンがある。このシーンでは、何を事実として受け取るのかという、現実をつくる諸コードの落差を示し、現実の不安定性を巧みに描いたようにみえる。言い換えれば、コードの差異によって、登場人物の行動を引き起こす指針も組み変わり得るという視点が示されているのだ。劇中劇ではなく、斧がエイダの指に落とされる場面を待って、スコットランドの人々とマオリの人々との間に定義づけられた劇/事実のコード差が、観客と映画の間に適用されるに至る(観客にとっての劇/映画にとっての事実)。ここでもまた、観客は映画という形式を一望する場所に立たされる。『イン・ザ・カット』の関心事もまた、そのような映画の形式への自覚に向けられていることは確かだ。とりわけ次のようなシーンにおいて。
 
 『イン・ザ・カット』で、いつものように地下鉄の中で広告の詩句を読み、反芻していたフラニーがホームに降り立つと、飾り用の大きなバルーンの輪を運ぶ人と擦れ違う。輪には文字が書かれている。一瞬前に読まれた文字と無関係な文字が繋ぎ合わされ(観客によって読み合わされ)、時間的に異なるシークエンスに属する文字が画面の上で空間的に配置し直され、認識される瞬間が訪れる。まさに分節され解体された(disarticulated)カット間の恣意性という映画の特性を、観客はここで目の当たりにすることになるはずだ。おそらくカンピオンがここで主題とした、解体された死体disarticulated corpseとは、恣意的な分節の重ね合わせこそが、映画を成り立たせる原理であることを示したものとして読まれるべきだろう。(つづく)

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