[思想] 2004.3.19 中井 悠 |
||
からっぽな身体 (2/2)ジョルジョ・アガンベン 「ホモ・サケル 主権権力と剥き出しの生」 |
||
アガンベンの論理は単なる身体を超越した生をひとまず確保した後で、そのような生を表象する似像という特殊な形象にかこつけて、身体にふたたび戻ってくる。そのさい眼の前に現れるのは、可視化された聖なる生であるとされる。問題は、ホモ・サケルの政治的身分が、主権者の場合のように生物学的身体にそれを超越する政治的な生が折り重ねられているのではなく、反対に主権の決定によって生物学的身体からいっさいの政治的な生が抹消されているという点にある。つまり同じく「剥き出しの生/聖なる生」という名で呼ばれながらも、主権者の似像が純粋なビオス(bios)の表象であったのに対し、それに重ね合わせられたホモ・サケルの身体は純粋なゾーエー(zoe)の形象なのだ [*1]。そのようなからっぽな身体を可能にするために「剥き出しの生」あるいは「聖なる生」という中身のない言葉をアリバイとして、ホモ・サケルは主権者の似像と生きながらにして重ね合わせられる。要するにこれらはすべて、生に関する政治的な決定を身体という現実に着地させるためのトリックにすぎない [*2]。 結局のところ主権に許されるのは生の抽象的な区分に関する決定だけであり、具体的な身体を扱おうと欲するのであれば、身体と生を同一視する何らかの方法を確立しなければならない。アガンベンは彼が追いつめようとする主権の暴力的な構造にまるで感染したかのように、いつのまにか同じ政治的な手続きによって「純粋なゾーエー」とされるホモ・サケルを成立させてしまう(だからアガンベンが生政治の時代のメカニズムを語るとき、その語り口はどこまでも自己言及的なものとして読めてしまう)。だが主権がホモ・サケルとみなした人間をビオスとしては排除しながらも、ゾーエーとして確保しようとしたプロセスをいつまでも追随し、反復するには及ばない。感染を断ち切るためには、なぜそのようにずさんな論理のトリックがそもそも用いられる必要があったのかがまず問われなければならない。それらの仕掛けが要請されるほど、生に関する政治的な決定が身体に追いつかないということ、そのような物象化に身体が抗うということ、またそれゆえに純粋なゾーエーの形象などありえないということ。つまり展望は、生と身体との距離からふたたび測定される必要がある。第二章の終わりで投げかけられていた示唆は、著者の思惑に反して、肯定的に読み解かれるべきものとしてその可能性を提示する。「ホモ・サケルという形であらかじめ規定することのできる形象が今日もはや存在しないのは、我々が皆、潜在的にはホモ・サケルであるからかもしれない」(161−162)。 *1 古代ギリシアにおいて、「ゾーエーは、生きているすべての存在(動物であれ人間であれ神であれ)に共通の、生きている、という単なる事実を表現していた。それに対してビオスは、それぞれの個体や集団に特有の生きる形式、生きかたを指していた」(7) *2 第一部における例外状態と不分明地帯の形式的な議論もまた同じ欠陥を抱えている。例外状態という位相幾何学的な構造は、規範からの排除という事態が、秩序の宙吊りという形で規範に包含される否定的な関係性のことであり、それゆえ「例外状態はそれ自体としては、本質的に局在化されえない」(31)。しかし第一部・二章において外部が(アガンベン自身の度重なる注意にも関わらず)自然状態という実体的な領域として措定されると、内部に対する外部の否定的関係性であったはずの主権の作用、例外状態は内部における外部の内包(不分明「地帯」)として実体化されるにいたる。例外状態は「例外と規則、自然状態と法権利、外と内、これらが互いの内を通過する複雑な位相幾何学的形象のことなのである」(58)。それに伴って、まるで第二章における生と身体の言い換えを予告するかのように、「主権者」はすばやく「主権」と言い直される。60ページの例外状態を表わした図式に至っては苦笑を誘う。 | ||
| ||
[BACK] |