[思想] 2004.3.18 中井 悠 |
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からっぽな身体 (1/2)ジョルジョ・アガンベン 「ホモ・サケル 主権権力と剥き出しの生」 |
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「本書の主人公は剥き出しの生である。すなわち、聖なる人間(homo sacer)の、殺害可能かつ犠牲化不可能な生である」(17)、と予告されているものの、ジョルジョ・アガンベンの『ホモ・サケル』が生の名において語る物語には、身体という不明瞭な形象がつきまとっている。それまで一貫して「生」という言葉を軸に考察されてきた政治的構造に「身体」という言葉がはじめて登場するのは、「主権的身体と聖なる身体」と題された第二部・五章においてである。主権権力の永続的本性を保障するため中世では、神学におけるキリストの神秘的身体との類比によって、主権はそれを保持している人間の生物学的身体とは区別されるべき「政治的身体」であると考えられていた。このような王の二つの身体をめぐる名高い研究のなかでエルンスト・カントロヴィッチが言及している、主権者の死に際して王をかたどった似像が用意され、生物学的な死骸とは別に埋葬されたという奇妙な事例を引きつつ、アガンベンはそこで可視化された王の政治的身体を、古代ローマにおいて法的秩序から排除され、殺害可能だが犠牲不可能な生とみなされたホモ・サケルの身体と結びつけようとする。 まず古代ローマにおいて戦いの前に自らの生を死者の神々に捧げたデウォトゥスと呼ばれる人間が、それにも関わらず戦死しなかった場合に浮上していた問題が考察される。生き延びてしまったデウォトゥスは一度死に捧げられた以上、もはや生者の世界には属していないが、死を免れた以上、死者の世界にも属していない。ともに世俗的な世界から排除され、死へと捧げられているという共通の運命は「デウォトゥスの生とホモ・サケルの生を緊密に同一視することを可能にする」(139)。このような宙吊り状態を解消するために要請されたのは、デウォトゥスの等身像を製作し、不在の死骸の代わりに埋葬することであった。そしてこの儀式と主権者の二重の葬儀との形式的類似性に依拠しながら、「生の同一視」は、「身体の同一視」にすばやく切り替わる。「皇帝の似像は、主権者の身体とデウォトゥスの身体とを単一の布置へとまとめるものと思われる」(140)。この言い換えは、似像が表象する政治的身体すなわち主権が、秩序の効力を宙吊りにできる権力をもち、合法的に法の外に身を置くという特殊な位置付けにおいてホモ・サケル/デウォトゥスの生と一致するという点によって正当化される(「像によって切り離される皇帝の聖なる生の余剰」145)。 つまりアガンベン自身も確認するように、主権者が持つのは二つの身体であるというよりも、むしろ二つの生である。眼に見えるのはただ一つの身体であり、二つの生はどこまでも不可視の区分にとどまる(「生き延びてしまったデウォトゥス(…)は一見すると通常の生を営んでいるようだ」142)。それゆえ一つの身体という基盤の崩壊に際して、この生の区分を維持しようと願うのであれば(政治的身体が、生物学的身体の死にいわば引きずられる形で消滅してしまうのを防ごうとするのであれば)、それをまさしく二つの身体として可視化する必要が出てくる。つまり似像においてはじめて、余剰の生(それは「見ることも触れることもできない」)は身体という可視的な基盤を持つことになる。そしてこの可視性のもとにデウォトゥス、ホモ・サケルと主権者は結びつけ合わされる。「生き延びてしまったデウォトゥスとホモ・サケルと主権者とを一つの範例に結びつけるのは、そのいずれの場合も我々の眼前にあるのが、文脈から切り離された剥き出しの生だということである」(144)。 だがその一方で二つの生を二つの身体に分配することは、結局のところ二重性の消失に他ならない。それゆえに二重性の解消が問題となるデウォトゥスの場合において、等身像によって不在の死骸を作り出すことは、宙吊り状態を打開し、捧げられた者を生者の世界へと引き戻す効果をもった。しかしデウォトゥスにおける等身像が「個人を通常の生へと戻す」と認めながらも、「ホモ・サケルにおいては、我々は還元不可能な名残りのような剥き出しの生を前にすることになる」(144)と述べるとき、アガンベンは剥き出しの生の形象と剥き出しの生そのものとの線引きを易々と消し去ってしまう。こうしてホモ・サケルの生は似像の議論に依拠することによって身体として確定されるようになる。「ホモ・サケルはいわば生ける像なのであり、自分自身の分身にして等身像なのである」(142)。ひとたびホモ・サケルの身体の特殊性がそのように確保されると、それはそのまま主権者の身体と同一視されるにいたる。かくして「主権者の身体とホモ・サケルの身体が、互いに見分けのつかなくなるように見える不分明地帯」(137)とやらにおいて、主権者の生の二重性もまた、聖なる生の形象たる似像を経由することで、可視的生=身体に一元化・実体化されてしまう。すべてはあまりにも視覚的な出来事として語られる。 | ||
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