[美術] 2004.2.19 有賀 文昭 |
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没後八十年 最後の文人 鉄斎 ――富士山から蓬莱山へ――富岡鉄斎 その1 |
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本展カタログ序文には、「富士山、蓬莱山の名品がどのように制作されていったのかを新たな研究成果のもとに探」る、とある。展示諸作品およびカタログ所収の論文によって示されるこの研究発表において特筆すべきは、鉄斎の富士山が小泉壇山(だんざん)による『富嶽写真』のような写実的な絵画や、登山案内の資料、名所絵図等を参照したものであったという発見である。わけても、描かれるべき山塊の選択から構図にいたるまで、鉄斎による一連の富士山図と『富嶽写真』との類似点は数多く、この仮説は説得力を持っている。 ‘読万巻書行万里路’を実践した博覧強記の文人富岡鉄斎による富士山図は、形姿のありように重きをおかない。その全体は量を捨象した特異点のつなぎ方から成り、すべては登山者の記憶ないし経験としての断片から成る。たとえば、笠嶋忠幸 [*1]は『富士山図』(1898)右隻に見られるタッチを次のように分析している。「すそ野から中腹にかけての点描表現は、…米法の点描を下地にして、その上から群青と緑青の絵の具を重ねて点じている。少し離れてこれらを見ると、見る角度によっては、色調が変化して見える。…それは富士の樹海が、大気と光との加減によって、青色にも緑色にも見えることに起因するものだろう。」連想にとどまることのない、身体と環境の共働としての具体的な経験を喚起するこのような断片の諸々は、観賞者を次々と新たな視点へと誘い込む入り口となる。富士登山に関する書物を読破し、自らもまた富士を踏破し、かくして「大雅は不二を愛し、登挙幾んど十六回の多きに至る。故に大雅、不盡(尽)の畫(画)に於いて、尤も神韻を得たり」との賛が記された鉄斎『富士山図』の目論見は、‘膨張した心象風景のイメージ’(カタログ中に見られる表現)というよりは、不二(一)にして不尽(多)たる富士の真実を得ることにあったのだ、と、今回の研究成果に拠って、ひとまず言えそうである。 小高根太郎の指摘に拠れば [*2]、鉄斎の賛にはこの世で鉄斎しか持っていなかった古書からの引用があり、鉄斎はときに賛のなかの漢字を自前で作り上げさえしているという。絵画において示された様々な徴候もまた、モチーフを持たぬ書(ないし賛)においても同様に発揮される類の、もはやペダンティックの域を超えた、解読されるべき世界の断片(インデックス)としてあるだろう。だが、この断片は、鉄斎の作品が持つ迫力と飄逸を説明するものではない。「名品がどのように制作されていったのか」という問いへの答は、未だ与えられていない。 *1 『最後の文人 鉄斎----富士山から蓬莱山へ』展カタログより抜粋 *2 編集 後藤茂樹『現代日本美術全集 1 富岡鉄斎』集英社、1973年を参照 出光美術館 http://www.idemitsu.co.jp/museum/honkantop.html | ||
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