[映画] 2004.1.1 有賀 文昭 |
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岩波映画を観る1 羽仁進の方法----真実をとらえるための虚構(1)『彼女と彼』(1963・2003/ニュープリント) 羽仁進監督 |
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左幸子演じる直子が髪を上げて結うとき、夫は妻らしさの象徴として喜び、通りすがりの子供たちは彼女を「おばさん」と呼ぶ。映画の時間と空間は、愛情表現と若さの喪失という直子におけるこれら反映された影の反復によって形成される。あるいはまた、山下菊二演じる伊古奈(いこな)がなぜバタヤ部落での生活を望むのかということは、団地の人々の、鉄屑業者のバタヤ生活に対する反応と、伊古奈自身のバタヤ生活に対する反応などによって構成される。何かに触発された結果としてのリアクション・痕跡が、空白として与えられた対象をめぐって、それぞれ異なる生活様式、異なる思考回路として、偏向として、互いを位置づけあう。『彼女と彼』は、このようなリアクション・痕跡が表現している複数のストーリーを交錯させることによって構成された映画である。映画はあたかも事件の真相を探り出そうとする探偵によってかき集められた証言や状況証拠の集積から成るかのごとくであり、噂や反応が乱反射し互いの行動に影響を及ぼしあっているこの世界の複雑さに観客を直面させる。『彼女と彼』が与えるもどかしさ苦々しさはここに起因し、錯綜するレポートを前にして、観客はあたかもすべてが信念の程度問題に過ぎぬかの如く感じさえするやも知れぬ。だが、この作品それ自体に迷い(もどかしさ)はない。映画が表現するところのものは明瞭である。これは迷走する映画ではなく、複数の偏向が互いの部分を反復しあう構造そのものを描いた映画であるからだ。(この悟性なき世界においてクマが殺されるのは充分にありうることだが、まただからこそ、この映画は悟性を充分に備えていると言えるのである)。リアリティとは選択と排除(偏向)において成立する信念の度合い(強弱)であるといったタイプの妄想は、この映画において悲劇として語られる。 目が光の可能性であり、耳が音の可能性であるように、伊古奈はバタヤ部落での生活を可能なものとして表現している。ここでも、伊古奈をシュルルポルタージュの巨匠山下菊二が演じるのは偶然ではない。おそらく、羽仁が生きた彫刻としての山下に求めたものは山下の身振りや顔つきといったディテールを束ねる一貫性であり、伊古奈についての読解・理解をそれによって提示することである。山下は伊古奈の分身である。『彼女と彼』において描写される個々の人物のリアリティは、演じられるものと演じるものとの絡み合いによる人物像の理解=造形にある。同様の方法は、団地の子供達と部落の子供達が行う戦争ごっこのシーンにも見て取れる。山下菊二は演技に関して素人でありながら、ベルリン国際映画祭において絶賛され、主演男優賞の有力候補に挙げられた。(つづく) * 03年11月13日から22日まで、近畿大学四谷ギャラリーにおいて『岩波映画を観る』と題された映画祭が開催された。本文は当企画に対するコメントである。 | ||
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