[映画]
2003.12.18  倉橋克禎

ドッペルゲンガー

憂鬱な「分身」といかにつきあうか---黒沢清『ドッペルゲンガー』について

 いつもどこかで期待を裏切ってしまいジャンルの拘束からいとも易々と抜け出して見せる黒沢清の作品は、今回もそれを私たちに突きつける。『ドッペルゲンガー(Doppelgaenger)』('02)と題された作品は、あの『CURE』('97)や 『CHARISMA』('00)にも私たちの前に登場した役所広司が自己の「分身」の「ドッペルゲンガー」に恐怖し、憂鬱に悩まされる作品である。映画の前半部分のただならぬ雰囲気はまさに、ホラー映画の雰囲気によって撮られているのだが、ホラー映画に何処からか脱臼していく。
 映画『ドッペルゲンガー』から「死と再生」の物語だとか、精神分析主題などを取り出しても何の意味もない。永作博美は、「ドッペルゲンガー」となった弟を「受け入れるしかない」として一緒に生活していたのだし、死んだはずの役所が何の理由の説明なく生き返っても彼女は驚きはしない。何の疑問も感じずに受け入れてしまうのである。
 「制度」上のルールを決めたわけでもないのに、スクリーンに投影される映像は、単一の時空間を表現しなければならないと我々は思っていたりもし、それが映画のいつのまにか無意識の「制度」となってしまったりもする。黒澤清は自己の映画史的な記憶に忠実に、そして、大胆に、スクリーンを3分割し、時間的な同一性に沿って、2分割されたスクリーンに別の空間の現象をそれとして表現してしまう。[*1]役所広司と「ドッペルゲンガー」が別々の空間のなかで、別々の視線を持って存在している事を単一のスクリーン上にフィルムを3分割して表現してしまうのである。
 黒沢作品の秘密は、黒沢的な廃墟の増殖と「暗さ」の表現にあるのだが、『ドッペルゲンガー』もまた増殖していく「廃墟」と「暗さ」に特徴を持っている。
 この映画は、全体的に薄暗い見通しの悪い空間によって演出されており、暗い雰囲気のなかに包まれている。暗闇から落ちてくるミラーボールのような巨大なくす玉が圧倒的な存在感を持っているのも「暗闇」の装置が機能しているからに他ならない。
 映画的な物語が進行する空間である部屋という部屋、工場という工場が、まばゆいばかりの光に映し出される事はなく、薄暗さのなかで表現される。部屋のなかで光として目にされるのは、カーテン越しの逆光であったり、薄暗い会議室のブラインドを透かして見える美しい木々の緑の反射光であったりするのである。映画の時間的持続が展開され映画的事件がほとんどが起こるのは、不透明なこの薄明かりにおいてである。
 ある個人の人格がある社会関係のネットワークにおいて取り得る仮面に過ぎないならば、映画に描かれ生々しい実体を持っているかのように見える「人間」はまさにフィルムの表層で光と陰に演出されるに幻影に過ぎないものだ。実際のところ、身体的な特徴が全く同じだからと言ってある個人がある個人としてアイデンティファイされるわけではない。記憶の同一性によってもそれは保証され得ない。
 役所広司が演じる早崎と「ドッペンルゲンガー」の早崎の区別は、社会関係のネットワークと彼自身の行動様式が示すものであり、あるいは、彼の行動の痕跡を示す血塗られたコートの表層で痕跡として示される赤い汚れにすぎないものである。
 こうした事を考えてみれば個人を関係性から自立した主体として捕らえる事ほど、映画の存在論的条件から逸脱したこともあるまい。キットラーは「ドッペルゲンガー」と映画との関係を論じながら「身体像は映画化されるとばらばらに打ち砕かれてしまう」[*2]と書き、1910年頃の特撮技術を使った映画を論じている。キットラーが言うように、映画そのものがそもそも身体的な自己同一性を破壊する傾向を持っている。だが、黒沢清は、ハイテク技術を駆使したビデオ撮影で映画を撮りながら一方であざとく見える特撮などは使ったりはしない。黒沢清が表現する「ドッペルゲンガー」は生々しい即物的な存在でありながら、一方で、徹底的に概念的な役割を担った「エージェント」なのである。
 役所広司が演じる早崎は、かつて画期的な血圧計を開発し、医療器具メーカのスター研究員として社員のあこがれの中心となっている。早崎は、「俺は俺のためにのみ生きる。これは変えられない」という。だが、この主張は悲喜劇的なものだ。早崎は、「人工人体」という江戸川乱歩の『人間椅子』を思わせるような不気味でもあれば、怪しげな介護機能付車椅子の研究開発をしているが、彼が研究を続けるには当然、会社という組織のなかで予算を組んでもらわねばならないし、定期的 「儀式」として成果を発表せねばならない。つまり、早崎は、独りで研究をしているように見えるが、その研究を支えマネージメントする関係性があってはじめて成立するのである。早崎は、自分の「夢」を追いかけるために自分「夢」を共に見る「分身」が存在が必要なのである。
 資本主義的な制度を自明のものとして見るなら、早崎の研究はそれ自体において高い流通可能性、すなわち、高い価値を持っている。この高い価値が、早崎に「俺は俺のために生きる」という「幻想」を与えるのだが、彼は、研究生活を潤滑に進めるためのマネージメントが出来ない。一人の男というレベルに戻っても彼は、彼に好意を寄せている女性にすら思いを伝える事が出来ないのである。早崎は研究に行き詰まり、周囲に八つ当たりし、彼の支援者たる榎本明の存在を認めない。早崎は、会社での研究が終われば、落ち着かない喫茶店で食事をし、毎日、一人で死んだ魚のような目をしながら車を走らせ孤独で生活感のないマンションに戻る生活をしている。
 早崎の「ドッペルゲンガー」は、こうした早崎の存在論的な行き詰まりを圧倒的なスピードで打開する「エージェント」として登場する。「ドッペルゲンガー」は、早崎を憂鬱な会社の拘束から解き放ち、女と結ばれる「夢」を実現させ、研究資金と適切な研究場所を怪しげな映画的とでも言い得る強引な方法で提供する。「俺はお前の存在を認めている。お前も俺の存在を認めろよ」と「ドッペルゲンガーは言う。だが、早崎は、「ドッペルゲンガー」に全面的に頼りながら彼の存在を認められない。
 黒沢清が演出する「ドッペルゲンガー(分身)」とは、関係の自明性と倒錯を構造化し、ダイナミックに流動化して見せてくれる。すなわち、資本主義交換の制度という貨幣によって構造化された世界の論理を明るみに出す「エージェント」なのである。早崎は、工場の暗がりのなかでついに「人工人体」の開発に成功し、「人工人体」を操ってジッポのライターで煙草に火をつける。この満足の絶頂のシーンが、早崎の没落を決定づける美しくも残酷なシーンとなるだろう。早崎は、「人工人体」を操りながら、携帯電話をかけ、まるでそうする事が当然の事であるかのように、ライバル企業の開発部長に得意になって自分の成果を売り込もうとする。だが、成功の絶頂で、早崎は、自由と満足を獲得するどころか、唯我独尊的なスタイルを完全に失った組織の人間として自分の自由を誰かに売り渡す儀式をしているのである。一人孤独にいる工場の暗闇のなかで彼の空虚で内実を失った声が残酷に響き渡ってゆく。
 役所広司が開発していた「人工人体」は不自由な身体に自由を取り戻す「ドッペルゲンガー」のようなものだが、一方、映画『ドッペルゲンガー』は、暗闇のなかに覆い尽くされ不自由となった社会関係のベールを構造化させ明るみのなかに投影するスクリーンとなるのである。映画の最後で、映画の欲望の中心として機能していた「人工人体」が明るみのなかで、制御不能になり崖から落ちるとき、人を爽快な気分にさせるとすれば、そこで倒錯的分身と暗闇が支配する憂鬱な世界にかりそめの「ピリオド」が打たれたからではなかろうか。

*1 樋口泰人氏 梅本洋一氏 志賀謙太氏によって黒沢清氏に対してなされたイン
   タビューで、画面の分割についても黒沢は語っている。
    樋口:陰影をつけるのは現場でということですが、画面分割は編集時ですよ
       ね。これみよがしに『アカルミライ』『ドッペルゲンガー』両方でや
       ってましたけど。
    黒沢:これはもうとにかく、思い起こせば30年ぐらい前から絶対やりたいと
       思っていたことなんですよ。(中略)デ・パルマやりましたし、オル
       ドリッチもやりましたし、ペキンパーの『砂漠の流れ者』の冒頭部分
       も分割だ、とこれはまあ一時の流行ではあるんですけど、一映画ファ
       ンとして夢だったんです……。  
       (http://boid.pobox.ne.jp/voice/kkint_02.htmより引用)

*2 フリードリヒ・キットラー著、石光泰夫・石光輝子訳、筑摩書房、『グラムフ
   ォン フィルム タイプライター』,99年,P235

[PAGE TOP]
[BACK]